二日目 9月19日(金)


6時に目が覚める。窓の外は明るく晴れている。朝風呂を浴びて気分爽快。朝食はバイキング、エネルギー補給のため和食にし、しっかりと食べて、コーヒーも飲み準備万端。7時45分にチェックアウト、二日目をスタートする。





JR山梨市駅前」
JR山梨市駅8時14分発で甲斐大和駅へ。

JR山梨市駅前

JR甲斐大和駅前」
8時35分、街道歩きのスタイルを整え甲斐大和駅を出発する。駅前にはメルヘンチックな村営バスが停まっている。

JR甲斐大和駅前

「大和橋」
日川の大和橋を渡って西詰の交差点へ。ここで歩数計をリセットして、昨日の続きを鶴瀬宿へと向かう。橋の西詰には笹子峠への標識がある。

大和橋





鶴瀬


甲州道中第三十四宿 鶴瀬 【つるせ】


所在地 山梨県東山梨郡大和村
最寄駅 JR中央本線「甲斐大和駅」
日本橋から 121.2q   勝沼へ4.0q



本陣1、脇本陣2、旅籠が4軒あった。鶴瀬の関所は甲州12関の一つで要衝の地。


「古跡金岡自画地蔵尊碑」
立会橋を左の旧道で渡ると左手、白い標柱の脇に石碑が二つと間に小さな石の地蔵さんがある。標柱の側面の解説には『この地は絵画の巨匠巨勢金岡巡歴の際、岩面に地蔵尊を画いた所です。今は水害にあい岩角崩れ当碑のみなり』とある。

古跡金岡自画地蔵尊碑

「鶴瀬関所跡」
その先右手ブロック塀のところに白い標柱があり、ここが『史跡甲州道中鶴瀬関所跡』、甲州十二関の一つ『鶴瀬の口留番所』と言われた所。

鶴瀬関所跡

「常夜灯」
国道から右に分かれると、右手に常夜灯があり僅かな区間だが宿場らしい雰囲気のところがある。この辺り家は建ち代っているがきっと宿場だったところ。常夜灯は享和3年(1803)の建立。

常夜灯

「鶴瀬宿標柱と鶴瀬地区の碑」
すぐに国道に合流。振り返ると国道の左手に鶴瀬地区の石碑と横に白い標柱があり『甲州道中鶴瀬宿』、側面の解説には『宿高百九石六斗七升五合、本陣一、脇本陣二、旅籠屋四軒、問屋一軒、宿内家数五十八件』とある。

鶴瀬宿標柱と鶴瀬地区の碑





鶴瀬から勝沼へ


「古跡血洗沢」
家並みが切れ国道が右にカーブすると、右手は山、左手は日川となり快適な下り坂となる。志々久保バス停付近の右手、石垣の上に『古跡血洗沢』の標柱。

古跡血洗沢

「古跡鞍懸」
その先に同じく『古跡鞍懸』の標柱、どちらも側面に解説があるが、残念ながら武田の詳しい歴史を学んでいないので理解できない。

古跡鞍懸

「洞門」
やがて右からの山が迫り国道は洞門に入る。歩道は洞門に入らず左の谷沿いを行く。左手に対岸へ吊橋が架かっているが今は使えない。

洞門

「聖観音堂」
洞門の右から上に登る道が付いていて聖観音堂の標柱が立っている。お堂はどの辺りに有るのか、お堂にまでは行かず標柱の所から引き返す。

聖観音堂

「常夜灯と吊橋」
洞門を過ぎると旧道は右に別れ、右回りループで国道の下をくぐり、国道の左下を行く形となる。ループの途中ガードレールの切れ目に常夜灯があり脇に『古跡武田不動尊』とあり、背後に先程の吊橋が見える。

常夜灯と吊橋

「日川沿いを行く」
川岸にへばり付く様な家々を過ぎると坂を上り国道と合流する。しばらくは民家も無く日川沿いを行く。対岸には中央自動車道が走っている。

日川沿いを行く

「町村界」
間も無く左手に町村界のモニュメントがある。大和村名産の赤味がかった甲州鞍馬石とスチールを組み合わせたモダンなもの。ここに来るまでに一里塚跡が有る筈なのだが、見付ける事が出来なかった。ここからはぶどうで有名な勝沼町に入る。

町村界

「近藤勇柏尾古戦場」
深沢川の柏尾橋の手前右手に『近藤勇柏尾古戦場』の標柱と横に『柏尾橋』の解説板が立っている。

近藤勇柏尾古戦場

「近藤勇之像」
橋の袂に近藤勇の石造が立っている。作者には失礼だがコミック本から抜け出た様でどう見ても漫画チックである。

近藤勇の像

「古戦場の解説」
近藤勇像の台座石に嵌め込まれた解説。『明治元年(1868)3月3日、近藤勇が率いるかつての新撰組、会津藩兵から成る幕府軍甲陽鎮撫隊と板垣退助率いる因幡、土佐、高遠藩兵から成る官軍がこの地で戦った。この戦いは甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた』とある。

古戦場の解説

「柏尾山薬師如来碑」
柏尾橋を渡ってしばらく行くと右手山側に入る道の脇に『柏尾山薬師如来』と『本尊薬師如来』の石柱が立っている。この先の大善寺の裏参道で、この奥に宝暦12年(1762、芭蕉翁没後67年)建立の芭蕉句碑がある。
        蛤の生ける甲斐あれ年の暮れ

柏尾山薬師如来碑

「大善寺」
真言宗柏尾山大善寺、ぶどうの寺と呼ばれている。寺の縁起によると、『養老2年(718)僧行基が甲斐の国を訪れ、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、右手に葡萄を持った薬師如来が現れた。 行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れた姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺。以来、行基は薬園を作って民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと伝えられている』

大善寺

「街道沿いのぶどう園」
柏尾交差点で国道はバイパスとなって左に分かれ勝沼大橋へと向かう。この辺りから街道沿いにはぶどうのお店が並び、道路に面した駐車場の上にはぶどうの屋根が出来ているみたい。大きく育ったぶどうの房が見事に垂れ下がっている。

街道沿いのぶどう園

「国見坂」
やがて右手に『国見坂』の標柱。解説によると『元和7年(1621)甲州街道往還が定められ、この辺りを国見坂と呼んだ』とある。

国見坂





勝沼


甲州道中第三十五宿 勝沼 【かつぬま】


所在地 山梨県東山梨郡勝沼町
最寄駅 JR中央本線「勝沼ぶどう郷駅」
日本橋から 125.2q   栗原へ3.3q



本陣1、脇本陣2、旅籠23、問屋場1、総家数192、高札場1があった。今も昔も、ぶどうの産地として有名。


「上行寺」
勝沼ぶどう卿駅へ向かう交差点手前右手に、日蓮宗長遠山上行寺の背の高い標柱と4本の石柱が立っている。ここは日蓮上人投宿の地とか。

上行寺

「史跡勝沼氏舘跡」
交差点の左には史跡勝沼氏舘跡が有り、それらしい柵が設けられている。

史跡勝沼氏舘跡

「甲州街道勝沼宿の解説板」
その柵のところに勝沼宿の解説板がある。それによるとこの辺りには枡形があって宿の入口であった。

甲州街道勝沼宿の解説板

「脇本陣跡」
上町の右手に『勝沼宿脇本陣跡』の標柱。ここには遺跡は残っていない。もう一つは中町(現本町)の右手に有った。

脇本陣跡

「宿の中心部」
上町交差点から宿の中心部を望む。

宿の中心部

「本陣槍掛けの松」
右手空き地になっていて、道路沿いにマツの木と大きな庭石があり、奥に白い土蔵がある。マツの木の脇に『本陣槍掛けの松』の標柱が立っていて、ここが勝沼宿本陣の跡。標柱側面の説明によると『本陣に大名や公家が泊まると、目印にこの松に槍を立て掛けた』

本陣鞍掛けの松

「仲松屋住宅」
左手に白い土蔵を挟んで数軒の格子造りの家が並んでいる。レトロな赤い郵便ポストがアクセントになってとっても良い雰囲気。何時までも残しておきたい風景。質屋として財を成した富商・萩原家。江戸時代『大名の台所』と言われ諸大名に大金を貸し出していた。

仲松屋住宅

「仲松屋解説板」
解説には『この住宅は江戸時代後期の東屋敷と明治初期の西屋敷の2軒分から成る商家建築群で、勝沼宿の建築を知る上での貴重なもの』とある。

仲松屋解説板

「三階建ての蔵」
斜め向かいに有るのが三階建ての蔵。相当痛んでいるが三階建ては一寸珍しい。

三階建ての蔵

「旧田中銀行社屋」
右手にレトロな洋風建築の旧田中銀行社屋がある。

旧田中銀行社屋

「田中銀行解説板」
解説によると『明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられ、大正9年から昭和7年まで山梨田中銀行社屋として使われた凝洋風建築で国登録有形文化財』

旧田中銀行解説板

「明治天皇勝沼行在所跡碑」
勝沼小入口交差点付近には色々な碑や解説板がある。大きいのは『明治天皇勝沼行在所』の碑、その左に『勝沼学校跡』の解説板、御製碑、ようあん坂の標柱、里程標などがある。

明治天皇勝沼行在所跡碑

「ぶどう畑と諏訪神社」
役場入口交差点の先右手、ブドウ畑の奥に諏訪神社がある。

ぶどう畑と諏訪神社

「旧家?」
その左斜め前には堂々たる構えの屋敷がある。表は白壁の塀に白壁の土蔵、奥の母屋は切り妻平入りのどでかい建物。屋根には大きな煙出しのような屋根が乗っている。どのようなお宅なのだろうか?

民家?

「常夜灯と道祖神」
右手に常夜灯と道祖神。常夜灯は文化6年(1809)の建立、道祖神は丸い石が3段に積まれコンクリートで固められている。

常夜灯と道祖神





勝沼から栗原へ


「等々力交差点」
この等々力交差点、右から来た国道411号線が右折し、先は県道から国道に格が上がる。かつてこの辺りに高札場があった。

等々力交差点

「延命地蔵尊と常夜灯と道祖神」
右手に延命地蔵尊。その前に常夜灯と道祖神。ここの常夜灯は文政12年(1829)と刻まれている。

延命地蔵尊と常夜灯と道祖神

「旧家を使ったほうとう屋」
街道の右手にまたもや立派な屋敷。飲み物を買いに入った向かいのコンビニの人に尋ねたら、ここは古い建物を使った『ほうとう』屋さん。『ほうとう』とは甲州の郷土料理で、小麦粉をのして作ったほうとうを下茹でせずに南瓜や里芋、人参等と味噌仕立ての汁で煮込んだもの。

旧家を使ったほうとう屋





栗原


甲州道中第三十六宿 栗原 【くりはら】


所在地 山梨県山梨市
最寄駅 JR中央本線「山梨市駅」からバス
日本橋から 128.5q   石和へ6.2q



本陣1、脇本陣2、旅籠が20軒あった。西方に甲斐一ノ宮、一宮浅間神社がある。


「看板に書かれた栗原宿名」
勝沼町から山梨市に入り町名は上栗原、次の交差点が上栗原。だがこの辺りに街道や宿場の解説が全く無い。やっと見付けたのが左手にある『フルーツ狩り・お食事処大戸屋』の看板。ここに『甲州街道栗原宿』と書かれている。

看板に書かれた栗原宿名

「道祖神」
看板の向かいに道祖神。

道祖神

「灯篭と小祠」
道祖神の奥には1対の灯篭と小さな祠。何か謂れが有りそうだが何の解説も無く詳細が分からない。灯篭には文化6年(1809)の年号、きっと宿場の移り変わりを見てきたに違いない。

灯篭と小祠

「下栗原バス停」
下栗原のバス停付近、観光ぶどう園が並んでいる。

下栗原バス停





栗原から石和へ


「民家」
右手の日川高校を過ぎ一町田中の右手、新築の様だが建物は先に見たほうとう屋さんと同じ伝統的なスタイル。今でもこのような建物が建てられるのだと感心する。

民家

「日川橋」
一町田中の交差点で左折し、そのまま進むと日川の日川橋。

日川橋

「甲州桃太郎街道」
橋を渡って日川橋南詰め交差点を右折する。この先の道沿いには『甲州桃太郎街道』の表示や幟、旗がいっぱい。橋を渡ると八代郡一ノ宮町で、ここは桃の産地。

甲州桃太郎街道

「笛吹川沿いを行く」
直線道路をおよそ1q進むと右からの笛吹川に出会い、その左岸沿いを行く。見晴らしが良く、対岸に石和温泉のホテルなどの建物が見える。

笛吹川沿いを行く

「笛吹橋」
やがて国道411号線は右にカーブして笛吹川の笛吹橋を渡る。橋の手前辺りから石和町になる。

笛吹橋





石和


甲州道中第三十七宿 石和 【いさわ】


所在地 山梨県東八代郡石和町
最寄駅 JR中央本線「石和温泉駅」
日本橋から 134.7q   甲府柳町へ6.2q



本陣1、脇本陣1、旅籠が14軒あった。青梅街道、鎌倉往還が集まり賑わった宿。


「笛吹権三郎の像」
橋を渡ると正面から右手辺りが石和温泉の歓楽街。街道(国道411号)は橋を渡ってすぐに左折し川沿いを行く。堤防上の道路から初めて右に降りる分かれ道に笛吹権三郎の石像がある。

笛吹権三郎の像

「笛吹権三郎の解説」
台座の石に嵌め込まれた『笛吹権三郎の事』には権三郎にまつわる長い話が刻まれている。『彼が逝ってから夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえるようになった』とある。

笛吹権三郎の解説

「道祖神と権三郎像」
大きな石の上に横笛を吹く権三郎の像が乗っている。右には水天宮の碑が二つと、大きな球状の石を乗せた道祖神がある。
堤防上の道路は歩くのが怖いので、権三郎の像から下に下り、街道より一筋右の権三郎通りを行く。

道祖神と権三郎像

「遠妙寺」
堤防道路から降りてきた国道と合流し町の中心部へと進む。やがて右手にお寺がある。鵜飼山遠妙寺。解説によると『文永11年(1274)夏、日蓮聖人が当地をご巡化の砌、鵜飼漁翁の亡霊に接し、一字一石の経石を書写して川施餓鬼法要を行ない、亡霊を済度。謡曲「鵜飼」発祥の史跡として謡曲愛好者など文人墨客の来訪が多く、川施餓鬼根本道場として全国に知られる』とある。

遠妙寺

「石和本陣跡」
道路の右手、駐車場の金網フェンスの後に『石和町指定文化財史跡石和本陣跡』の碑と解説板が立っている。奥にある白い土蔵が現存する唯一の建物である。

石和本陣跡

「本陣跡の解説板」
この本陣は明治13年6月19日の明治天皇巡幸の際、御休憩の予定であったが、直前の同月6日大火に見舞われ焼失してしまった。宿場中、大騒ぎしている様子が目に浮かぶ。

本陣跡の解説板

「宿の中心部」
本陣跡から宿の中心部を望む。手前の信号が小林公園、次の信号を右折すると石和温泉駅。小林公園は日本財界の重鎮と言われ、名誉町民の小林中(1899-1981)の屋敷跡を活用して、1976年に公園化したもので、近くにモンデ酒造株式会社と隣接している「モルへス美術館」(見て触れる「トリックアートの世界」)がある。

宿の中心部

「石和八幡宮」
右手の赤い鳥居が石和八幡宮。

石和八幡宮

「八幡宮の解説板」
建久3年(1192)鶴岡八幡宮をこの地に勧請し石和八幡宮としてここの産土神とした。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三神。現在の建物は安永3年(1774)建立で石和町最古の建築。
時計は午後1時を回った。小さなスナックを見つけ昼食、ランチとアイスコーヒーでしばらく休憩とする。汗がひいた。

八幡宮の解説板

「甲運橋」
石和温泉駅入口の信号を過ぎ、次の信号が甲運橋東で、その先の橋が甲運橋。これを渡ると甲府市に入る。

甲運橋





石和から甲府柳町へ


「甲運橋脇の道標」
橋を渡ったところ、右手木の根元に道標がある。万延元年(1860年)の建立。文字の一部は埋まっているが、『左甲府身延甲運橋道・右富士山大山東京道』と彫られている。

甲運橋脇の道標

「門構えに土蔵のある家」
国道411号線の直線の道をひたすら進む。和戸町、甲運小入口バス停近くの左手に、門構えに白い土蔵の家がある。

門構えに土蔵のある家

「長屋門と土蔵のある家」
続いて白い壁の長屋門と土蔵のある家が。

長屋門と土蔵のある家

「門と白壁の塀のある家」
更には門構えに白壁の家が続く。この辺りはどのような街だったのか非常に興味を惹かれるが歩いている限りは分からない。帰ってから調べてみよう。

門と白壁の塀のある家

「横根跨線橋南」
横根跨線橋南の交差点で国道140号線の青梅街道を渡り、甲府の中心部へと近付いてゆく。

横根跨線橋南

「髭題目碑」
十郎川の十郎大橋を渡り、山崎信号の右手に髭題目碑が建っている。この辺りは刑場の跡だとか。

髭題目碑

「日本武尊御旧蹟碑」
右手に『日本武尊御旧蹟』の碑が建っている。これはこの先にある酒折宮のことか。右から踏切を渡ってここへ出てくる道が古い青梅街道。

大和武尊御旧蹟碑

「山梨学院大学」
左手に大きく聳えるのが山梨学院大学。お正月の箱根駅伝でお馴染みである。この辺りには似合わないような立派なキャンパスが広がる。

山梨学院大

「酒折駅入口」
酒折(さかおり)駅入口交差点。右へ行くとJR中央本線酒折駅で次の駅は甲府である。いよいよ甲府へ近付いてきた。この辺り学生街で何となくそんな若やいだ雰囲気が感じられる。

酒折駅入口

「酒折宮」
JR酒折駅を過ぎてしばらくすると、右へ入る道路の左手に『酒折宮』の石碑がある。その奥に、石の鳥居、踏切があり、更にその奥に社殿の屋根が見える。これが酒折宮で、古事記や日本書紀にも登場する歴史あるお宮である。酒折は坂折とも書き、古代には甲州の中心であった。

酒折宮

「甲斐善光寺」
善光寺へ通じる道との交差点、善光寺入口付近には板垣の一里塚というのがあったらしいが、碑などその跡を示すものはない。甲斐善光寺はここから右に約700メートル奥にあり、武田信玄が川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558年)に御本尊善光寺如来像など諸仏寺宝類を奉遷したことが始まりで、その後、御本尊は慶長3年(1598年)に信濃に帰座なされ、甲府には新たに前立仏を御本尊と定め現在に至っているという。

甲斐前光寺

JR身延線をくぐる」
JR身延線のガードをくぐる。緑色の鉄橋の側面に白いペンキで鮮やかに、善光寺駅入口の字と矢印が描かれている。ガードをくぐると道は鍵の手に曲がる。

JR身延線をくぐる

「黒い塗籠造りの家」
高倉川を渡ると右手に、黒い塗籠造りの家がある。あまり見掛けない珍しい建物だが、堂々としていかにも時代を感じさせる。

黒い塗籠造りの家

「格子のある家」
続いて格子造りの家。この辺り街道筋の名残が残っているようだ。

格子のある家





甲府柳町


甲州道中第三十八宿 甲府柳町 【こうふやなぎまち】


所在地 山梨県甲府市
最寄駅 JR中央本線「甲府駅」
日本橋から 140.9q   韮崎へ14.2q



単に甲府宿と呼ぶ場合もあるが、正式名称は「甲府柳町」。宿場の中程にある柳町に問屋場などが集まっていたことによる。江戸時代には、この宿を下府中といい、武田時代の甲府駅北部を上府中、あるいは古府中と呼んだ。江戸期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒の宿であった。武田信玄ゆかりの地で、甲斐の国中心地。


「かねんてで左折」
甲斐善光寺前から一直線に進んできた道がここで左に折れる。この辺りを『かねんて(金手)』と呼ぶ。宿場や城下町特有の鍵の手に曲がる道である。左のお店に『甲斐路あります』の旗、ここは甲斐路なのに『甲斐路』とは何なのか? ぶどうの品種のことか、ワインの名前なのか? それともお饅頭?

かねんてで左折

「天尊躰寺」
かねんてを左に折れた左手にお寺がある。功徳山尊躰寺。甲斐の代官・大久保長安のお墓や「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」で知られる山口素堂のお墓などがある。

天尊躰寺

「かねんてで右折」
続いて右に曲がる。

かねんてで右折

「教安寺」
右に曲がったところ、左手家並みの後にお寺がある。甲福山教安寺で、徳川家康第8子・仙千代の廟所や城下に時を知らせた「時の鐘」と同じ奉行が寄進した鐘、甲斐の中世の石造物文化を代表する「六地蔵石幢」などがある。甲府初の芝居小屋がおかれた興行発祥の地でもあるとか。

教安寺

「岡島百貨店」
かねんてを過ぎるといよいよ甲府の中心部に入る。NTTを過ぎると町名も中央3丁目から丸の内1丁目。右手には岡島百貨店。

岡島百貨店

「彫刻のあるアーケード通り」
甲府でも最も繁華なところ。アーケードの街並みのあちこちにブロンズの像が立っている。

彫刻のあるアーケード通り

「山梨中央銀行本店」
岡島百貨店に続いて山梨中央銀行の本店。経済の中心でもある。左には古名屋ホテル、間違って名古屋ホテルと読んでしまった。
山梨中央銀行本店

「左に甲府警察署、右に甲府市役所」
左が甲府警察署、右が甲府市役所。歩道橋の架かっているのが警察署前交差点で、駅前の大通り。右に行くとJR甲府駅。

左警察、右市役所

「警察署前交差点歩道橋より南を望む」
今回の「甲州道中ウォークその3」の行程はここまでとし、歩数計をリセットする。
歩道橋から南を望む。ケヤキ並木の道が延びている。甲州道中は次の歩道橋のある交差点で右に曲がり更にその先韮崎へと続く。

警察署前交差点歩道橋より南を望む

JR甲府駅」
JR甲府駅、駅ビルの前はバスのターミナル。どこも駅の前は同じような景色である。

甲府駅

「武田信玄公之像」
駅ビルの左手の広場に武田信玄の像、鎧兜に軍配を持ってどっかりと座っている。ここは甲斐の国である。

武田信玄公の像





今回の「甲州道中ウォークその3」のキーワードは『果と実』。歩いている道の左右や頭上、足元でいろんな『果と実』にお目にかかった。葡萄、桃、林檎、柿、無花果、柘榴、アケビ、胡桃、栗、クヌギ、コナラ、アラカシなどなどと、そして稲。さすがは果物王国甲州の地、しかも実りの秋である。

帰りは中央本線甲府駅から、山梨県の県庁所在地だけあって駅も立派である。今まで京王線飛田給、JR西八王子、初狩、甲斐大和、山梨市駅などマイナーな駅を利用してきたので余計にそう感じるのだろう。16時21分の電車で高尾へ、高尾発18時11分の電車で東京へ、19時21分東京着。山手線で人身事故とかで駅がざわついている。怖い怖い。

何時もの様に家へ電話を入れたりお土産を買ったりした後、八重洲の地下街で例の如く食事をして、例の如く東京温泉に入る。何時も思う事だが、疲れて大汗をかいているだけに風呂に入り、疲れをほぐせるのは有難い。

夜行バス『伊良湖ライナー』東京23時50分発を利用、今夜もほぼ満席。豊橋へは翌20日(土)午前5時20分着、予定より10分の早着である。家内が迎えに来てくれた。ありがとう。先回に比べて日の出の時刻がだいぶ遅くなった。朝焼けがとっても綺麗。6時前に無事我家に帰り着く。

        二日目
     42,711歩(甲州道中正味34,417歩)  ※歩数、距離共に歩数計による
     駒飼〜甲府   25.62q(甲州道中正味20.65q)

     今までの累計
     276,340歩(甲州道中正味239,392歩)  ※歩数、距離共に歩数計による
     日本橋〜甲府   156.32q(甲州道中正味135.00q)


ページ公開 2003年12月10日
ページ改良 2011年4月30日
 写真追加 2011年5月30日




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