二日目 2月4日(水)


6時にお目覚め。今日も元気だ! 朝から温泉に浸かる。天気予報によると今日も好天で穏やか。バイキングスタイルの朝食で、しっかり歩けるように腹ごしらえをし、コーヒーも飲んで7時30分にホテルをチェックアウトする。JR上諏訪駅発7時51分の電車で茅野へ。茅野駅で街道歩きのスタイルに整え、昨日終わりにした地点、銀行の角まで行って歩数計をリセット。8時10分最終行程をスタートする。





金沢から上諏訪へ


「タテグルミで屋根にX字型スズメオドリのある家」
スタートの銀行から少し富士見方向へ戻った所に本格的なタテグルミの家がある。ここの蔵は家の中央近くに位置しており、これはちょっと珍しい。屋根には簡単なスズメオドリが付いている。振り返る方向にあるので昨日は気が付かなかった。

タテグルミで屋根にX字型スズメオドリのある家


「諏訪大社上社大鳥居」
上諏訪に向けて歩き出す。茅野駅の真正面辺り、街道の左手に諏訪大社上社の石の大鳥居がある。

諏訪大社上社大鳥居


「大年社」
街道から右へ入った所に諏訪大社上社の末社の大年社がある。ここは御柱を立てず、7年ごとに素朴な鳥居を立てるとか。

大年社

「朝の街道」
再び街道に戻り上諏訪へと向かう。左から来た国道と合流し上原陸橋の交差点を過ぎると、次の信号が上原八幡。朝の光が眩しいくらいの良い天気。

朝の街道

「上原八幡」
丁字路の左正面、火の見櫓と左右の大木に挟まれたように注連縄を張った鳥居がある。しかし、道路に沿って金網のフェンスが張り巡らされ、正面には扉があるが閉じられていて、鳥居をくぐってお参りすることが出来ない。これも一寸珍しい。

上原八幡


「左手に雪の原が広がる」
この信号で国道から分かれ右に折れる。JRの線路をくぐり、一筋目少し高台になった道に出る。街道らしい長閑な道である。左手にはJRの線路とその向こうには低い山が連なり、広い雪原が広がる。

雪の原が広がる

「タテグルミの家」
古い街道筋に出て、再び諏訪らしい民家が見られるようになってきた。右手の家は典型的なタテグルミで屋根には五角形の星型のスズメオドリが付いている。

タテグルミの家


「真新しい蔵」
右手の家には真新しい蔵がある。

「蔵にカラーの大黒様」
蔵の妻の所には通常は家紋や屋号、苗字などが見られるが、このお宅の蔵には美しいカラーの大黒様が丸の中にデザインされている。壁の白、窓枠の黒とこの大黒様のコントラストが実に素晴らしい。

蔵にカラーの大黒様


「遊女小路」
頼岳寺の手前左に石の祠と『遊女小路』の標石がある。艶かしい名前の路、どんないわれが有るのだろうか?

遊女小路

「頼岳寺」
右手石段の上、大きな石柱の奥に山門のあるのが少林山頼岳寺。
解説のよると、ここは曹洞宗のお寺で、江戸時代初期の寛永8年(1631)、高島藩初代藩主諏訪頼水が開基。諏訪頼水は上社に祀られている建御名方神の直系の諏訪氏である。

頼岳寺

「こちらはカラーの恵比寿様」
左手にあるお宅の蔵には、今度は鯛を釣っているカラーの恵比寿様がある。丸の中にデザインされ立体的で鏝絵のようである。見ていて楽しくなってくる。

こちらはカラーの恵比寿様


「常夜灯と道標」
左後方へ下る道との分岐に大きな道標が二つと常夜灯が立っている。「右江戸道」、「右東京・左大門道」。と言う事は国道の上原八幡で折れてこの道へ来たが、それは誤りで、もう少し先で折れてこの下の道から上がって来るべきだったのだ。

常夜灯と道標

「タテグルミの家が並んで建つ」
右手小高い所にタテグルミの家が2軒並んで建っている。

タテグルミの家が並んで建つ

「火燈公園」
神戸の集落に入ると右手に火燈(ひとぼし)公園がある。解説によると、御柱年の盆の十五日の夕、この先の頼重院の裏山で、鳥居形に松明を並べ、鳥居火を灯して諏訪明神へ奉納した。その山を「火とぼし場」と言う。

火燈公園

「頼重院」
右手参道の奥に真新しいお堂の曹洞宗神向山頼重院がある。
解説によると天文11年(1542)このすぐ先にある桑原城で諏訪頼重は武田信玄に敗れ甲府で自害した。墓は甲府の東光寺にあるが、この地に菩提寺として頼重院を建て宝篋印塔を納めてその霊を供養した。

頼重院


「神戸の一里塚跡」
左に『一里塚碑』と『甲州街道五十一里塚』の解説板が立っている。

神戸の一里塚跡


「タテグルミと屋根にスズメオドリのある家」
神戸から桑原に到る辺り、右手にタテグルミと屋根にスズメオドリのある家がある。蔵には苗字が、屋根は入母屋のように妻の部分に二階の小屋根が付いている。スズメオドリは大きな五角形の星型で松本平に多く見かける「烏威し」と呼ばれるタイプ。

タテグルミと屋根にスズメオドリのある家

「屋根にスズメオドリと烏威し、X字型スズメオドリのある家が並ぶ」
四賀小学校入口付近の左手にある3軒のお宅それぞれスズメオドリのデザインが違う。手前の家は中に格子が組み込まれたタイプ、中の家は星型五角形のタイプ、奥の家は単純なX字型。見比べが出来て面白い。

屋根にスズメオドリと烏威し、X字型スズメオドリのある家が並ぶ


「大きな常夜灯」
道の分岐の真ん中に大きな諏訪大社の常夜灯と手前に『左江戸道』の道標がある。この先の信号が霧ガ峰入口で、右に折れた先に信玄に落された桑原城跡がある。

大きな常夜灯


「足長神社」
右手石段を上ると鳥居があり、更にその先に石段が続く。これが足長神社。

足長神社

「石室の中の道祖神」
街道の右手、石を積んだ祠の中に双体道祖神がある。後に石碑が有ったが何の碑かは不明。

石室の中に道祖神

「双体道祖神が並ぶ」
街道の右手、小川の脇のガードレールを背に双体道祖神が並んで立っている。右手にはJRが近付いてきた。

双体道祖神が並ぶ

「細武温泉共同浴場」
右手に細武温泉共同浴場、前に大きな温泉タンクがある。

細武温泉共同浴場

「公民館の前の道祖神」
右手の武津公民館の前に双体道祖神、その後に大きな石と解説の碑が立っていたが何の石だか、どんないわれが有るのかは分からなかった。この道祖神にも御柱が立っている。

公民館の前の道祖神


「清水町の清水」
やがて左側からの国道と合流する。その先の交差点が大清水。交差点から右に細い道を入ったすぐの所に清水が湧き出ている。

清水町の清水


「清水の解説」
解説によるとこの奥に秋葉神社があり、ここの清水が清水町の起源となり、300年前の記録にもこの清水のことが書かれている。

清水の解説

「漆喰壁の家」
いよいよ上諏訪の中心部に近付いてきた。右手山側に諏訪清陵高校。国道の左手に黒い漆喰壁の二階家がある。呉服のお店のようだ。

漆喰壁の家

「真澄の蔵元」
元町交差点は四差路になっており、国道は直進、街道は斜め右に進む。交差点の左に真澄の蔵元の宮坂醸造がある。ここの建物にも格子のあるスズメオドリがある。ここは1662年の創業、諏訪大社の宝物の真澄の鏡からその名前を取っている。店内で利き酒が出来る。

真澄の蔵元


「真澄蔵元の正面」
二階の格子を背景に酒林が下がり、店の入口左には薦被りが積まれ右には暖簾が下がっている。このような日本的なデザインもいいものだ。

真澄蔵元の正面





上諏訪



上諏訪 【かみすわ】


所在地 長野県諏訪市
最寄駅 JR中央本線上諏訪駅
日本橋から 207.3q   下諏訪へ 11.8km


名城「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城のある、高島藩諏訪氏の城下町。湯量を誇る諏訪湖々畔の温泉と信濃国一ノ宮諏訪大社上社本宮のある古い町。甲州道中の宿駅であるが、城下町だったために大名などが泊まる本陣や脇本陣などは無く、問屋だけが置かれていた。


「角間町十王堂跡」
元町交差点で国道から斜め右に分かれる。その分岐の角に角間町十王堂跡の碑と解説板がある。
解説によると初代藩主諏訪頼重の頃に建てられ、十王信仰が続いてきたが明治維新に廃寺となった。

角間町十王堂跡

「宿の町並み」
左右に格子造りの町屋が並び宿場の名残を感じる。

宿の町並み

「貞松院」
右手に浄土宗貞松院、今は本堂の工事中で足場とシートで包まれている。ここには家康の六男松平忠輝の墓がある。忠輝は越後55万石を領して高田の城主となるが、家康や秀忠との不仲から配流の身となり上諏訪の諏訪因幡守頼永に預けられた。

貞松院

「高国寺」
その隣に有るのが日蓮宗宣妙山高国寺。

高国寺

「本金酒造」
左手には塗籠壁となまこ壁の製本所、隣には『酒ぬのや本金正宗醸造場』と壁に大きく書かれた大きな建物。お店は国道沿いにある。ここは1756年の創業で家族経営だとか。この辺り上諏訪の酒どころ、酒蔵が集中している。

本金酒造


「本金正宗の酒蔵」
次の角で左折する。本金酒造の裏から横へ回ったことになる。国道に出た所が諏訪2丁目の信号交差点で、ここに「曲ノ手」桝形があった。ここで国道が一寸ずれているのがその名残。

本金正宗の酒蔵

「麗人酒造」
国道を右折し上諏訪駅の方向に進む。すぐ右手にあるのが麗人酒造、木造の建物の一部に三階が乗っている。ここは1789年の創業。

麗人酒造

「舞姫酒造」
隣が重厚な蔵作りの店と蔵が並んだ舞姫酒造。ここは明治28年に味噌・醤油の醸造元から分家して酒造を始めたという。

舞姫酒造


「宿の中心部」
桝形のあった諏訪2丁目から諏訪1丁目までが宿の最も繁華であったところ。それは現在も変わっていない。

宿の中心部

「問屋場が有ったといわれる駐車場」
右手にある諏訪中央駐車場の辺りが問屋場のあったといわれる所。

問屋場があったといわれる駐車場

「上諏訪町道路元標」
問屋場が有ったことを示すものや解説板など何も無いが、駐車場のフェンス際に『上諏訪町道路元標』を見付けた。元標はたいてい町の中心にあるのでこれが証拠の一つと言える。

上諏訪町道路元標


「精進湯」
この駐車場に入るように国道から右に折れた左手に、昨晩お世話になった精進湯がある。

精進湯


「虫湯跡から上諏訪駅方面を望む」
国道に戻って上諏訪駅近くの諏訪1丁目交差点で右に曲がる。

虫湯跡から上諏訪駅方面を望む

「虫湯跡碑」
この交差点の右向こう銀行の角に『史跡虫湯跡』の碑が立っている。この湯は藩主や藩士が利用したと言う。右に折れた道が横町で桝形になっており諏訪簡易裁判所のところで左に折れる。

虫湯跡碑

「吉田のマツ」
かりんちゃんバスの片羽のバス停、右手デパートの駐車場の一角、ブロックの崖の上に見事な松がある。これが諏訪市天然記念物の「吉田のマツ」。
はるか高い所に解説板があり、それによるとクロマツで、樹齢は270〜300年、高島藩士吉田式部彦衛門が元禄3年(1690)から享保8年(1723)藩主忠虎の大阪城守備に随行したとき持ち帰ったもの。吉田家庭園に有ったものを昭和のはじめに甲州街道沿いに移植した。

吉田のマツ


「二階に格子窓と欄干のある家」
左手には二階に手摺欄干がありガラス障子のはまった家がある。街道らしい雰囲気がする。

二階に格子窓と欄干のある家

「一里塚跡」
左手の家と家との間に少し奥まって『一里塚跡』の碑がある。そばには『甲州道中五十二里塚』の解説板がある。これをうっかり見過ごして、だいぶ先でおかしいと気付き引き返してきた。

一里塚跡






上諏訪から下諏訪へ


「温泉寺入口の石地蔵と碑」
湯の脇で街道は右に曲がり、続いて左へと大きくS字にカーブする。その途中から右に上がる道が有り、その右手に大きな石の地蔵と南無阿弥陀仏のこれも大きな碑が数基並んでいる。この道の上に高島藩主諏訪家の菩提寺である温泉寺がある。

温泉寺入口の石地蔵と碑

「児玉石神社」
この辺りからは山裾のやや高台になったところを湖に沿って歩く形になり、JRは左下を走っている。右手、街道から少し奥まった所に『児玉石神社』の碑と、常夜灯、石の鳥居があってスギの木立がある。

児玉石神社

「先の宮神社」
しばらく行って街道沿い右手に石垣のあるのが『先の宮神社』。見逃してしまいそうだがこの神社の入口の溝に蓋が無い。これには謂れが有って、昔、景色の良いこの地に住んでいた祭神の高光姫命が、諏訪明神からこの地が欲しいといわれたのを拒否したため、境内から出られないようにと神社の前の川に橋を架けることを禁じられたと言う。

先の宮神社


「屋根にスズメオドリのある家」
大和から高木の集落にかけて昔の面影を残した家が目に入るようになってくる。左の家は中に格子のあるタイプのスズメオドリが付いている。

屋根にスズメオドリのある家

「全面結氷した諏訪湖が見える」
この辺りに来てやっと諏訪湖が見え出した。湖は全面結氷しているようだ。待望の御神渡りは見られるかな?

全面結氷した諏訪湖が見える

「なまこ壁の蔵と屋根に烏威しのある家」
高木の集落になって左手になまこ壁の蔵と屋根に烏威しのある家並んでいる。ここの飾りはスズメオドリと言うよりは、松本平で烏威しと呼んでいるタイプである。絵になる風景としばらく見とれている。

なまこ壁の蔵と屋根に烏威しのある家


「昔の鯉料理屋」
その先左に、またまたすごい建物が現れた。左になまこ壁の蔵、中央に重厚な門、右手の母屋は切妻の二階建て、二階は持ち出しになっていて格子がはまっている。格子の下には鯉の彫刻。一階は引き戸も全て格子で一部は出格子となっている。一階の小屋根の軒丸瓦には井桁の紋がある。昔は鯉料理のお店だったとか。

昔の鯉料理屋


「ガス灯と台灯篭」
入口には台灯篭、軒には春日灯篭のようなクラシックな銅のガス灯。最近見た街道の雑誌の表紙の写真ではこの台灯篭に『宿・政屋』と書かれていたが、今日は『橋本』と書かれている。

ガス灯と台灯篭

「格子戸が美しい」
格子造りが実に素晴らしい。維持管理は大変だろうが、お宝である。何時までも残して欲しいと願わずには居られない。

格子戸が美しい

「双体道祖神」
街道の左手民家の駐車場に大きな双体道祖神、仲良く前で手を組んでいる。

双体道祖神

「石投げ場」
右から山が迫ってきて、街道を湖へ押し出す格好になったところが『石投げ場』と呼ばれる所で、山、街道、JR、国道、湖岸通りが狭い所に集まっている。目の下には諏訪湖博物館。名前の通りここから石を投げたら湖に届きそう。見晴らしが良く『明治天皇***』と『***石投場』の碑が立っている。ここから見た諏訪湖に御神渡りが走っている。感激

石投げ場


「諏訪湖の御神渡り」
さらにもう少し行った先でより見晴らしの良い所があり、そこから望遠カメラで狙う。湖上を走る白い線は御神渡りに違いない。これがそうなんだ。

諏訪湖の御神渡り


「富部の一里塚跡」
念願が叶い気分が良くなったところで、下諏訪の追分まであともうひと頑張りと、自らに鞭を打ってスタートする。富部の集落の右手に『甲州街道一里塚』の碑がある。江戸日本橋から53番目の一里塚で、これが甲州道中最後の一里塚となる。下諏訪の宿まであと11町(1,100m)。

富部の一里塚跡


「承知橋」
承知川の承知橋を渡る。道は狭く上り坂、前方で右にカーブしている。

承知橋




下諏訪



下諏訪 【しもすわ】


所在地 長野県諏訪郡下諏訪町
最寄駅 JR中央本線下諏訪駅
日本橋から 219.1q


本陣1、脇本陣1、旅籠40、総人口1,345、家数315.。宿の前後に中山道の峠を控えていること、甲州道中と中山道との接点であり交通の要衝であること、諏訪大社の門前町であること、中山道唯一の温泉地であることなどから賑わいのある宿であった。


「下諏訪町歴史民族資料館の案内の掛かった蔵と洋館」
上り坂の右カーブを曲がり切ると、目の前に蔵と洋館が並ぶ。蔵は下がなまこ壁、屋根にX型のススメオドリ、でもここのものは関板(破風板)の切り方が屋根の勾配と垂直で伊那谷風。隣の洋館は今様でおみやげ、喫茶の店。

下諏訪町歴史民俗資料館の案内の掛った蔵と洋館

「諏訪大社下社秋宮」
目の前がぱっと開け、左には駐車場、右には大きな『諏訪大社』の石柱と奥に鳥居があり神域が広がる。中山道歩きを含め何度か来たところ。とうとう下諏訪に来たのだ。

諏訪大社下社秋宮

「大きな注連縄の神楽殿」
先ずはお参りが先と鳥居をくぐる。左にカーブしながら緩やかな坂を上ると真正面に大きな注連縄が掛かった神楽殿がある。その両横から御柱が見える。今年は申年で御柱祭の年(寅と申の年、6年に一度の開催)。町のいたる所で観光ポスターを見掛けた。

大きな注連縄の神楽殿


「秋宮の幣拝殿」
神楽殿から幣拝殿に回って参拝する。「甲州道中を無事に完歩することが出来ました」と報告とお礼。諏訪大社には上社と下社があり、上社には建御名方命が、下社には妃神である八坂刀売命が祭られており、二神で一社。さらに上社には本宮と前宮が、下社には春宮と秋宮があり、四社で一社というややこしい関係がある。何故そうなのか難しい理由は分からないが、なにしろ全国に分社が一万余社あると言う偉い神様だから。

秋宮の幣拝殿

「新鶴本店の先が中山道・江戸方面」
参拝を済ませ元の街道に戻るとそこは門前町、信州蕎麦や瓦煎餅のお店が並ぶ。その先右手に塩羊羹で有名な新鶴本店。茅野産の寒天を使った素朴な塩味が絶品、明治6年の創業、この建物は幕末の志士画人天竜道人の屋敷だったとか。完歩記念のお土産に5本購入してザックに詰める。この丁字路が中山道と甲州道中の合流点で先が江戸方面、左が京方面である。

新鶴本店の先が中山道・江戸方面

「中山道との合流点綿の湯」
中山道との合流点、丁字路の右手に駐車場がありその奥の壁には木曽路名所図会の下諏訪宿の情景が陶板レリーフで描かれている。壁の前には幾つかの碑などがある。ここが問屋場や下諏訪三湯の一つ綿の湯が有った所。左から『甲州道中中山道合流之地』碑、『綿の湯』碑、『湯玉』のモニュメント、『綿の湯』の解説板、『中山道下諏訪宿問屋場跡』碑で、問屋場跡碑には甲州道中終点右江戸へ五十三里十一丁とあり、今回のウォークのまさに終点の印であり、歩いて来た距離が書かれている。同じ碑に左江戸より五十五里七丁、正面京都へ七十七里三丁とあり、中山道経由の江戸までと京都までの距離が書かれている。この何れをも歩いたことになる。

中山道との合流点


「甲州道中完歩記念撮影」
東海道五十三次、中山道六十七次に続いて、今ここに甲州道中四十四次を歩き終えることが出来た。時は平成16年2月4日正午。 ばんざ〜い! ばんざ〜い! ばんざ〜い! (万歳三唱)。通りかかった若いお母さんに記念写真のシャッターを押して貰った。

甲州道中完歩記念撮影



この後は余韻を楽しむエピローグに続きます。


ページ公開 平成16年2月27日
ページ改良 平成23年4月30日
 写真追加 平成23年7月29日



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