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美濃路七次独歩記
みのじななつぎひとりあるき
美濃路ウォーク その3
6月17日に美濃路ウォーク<その2>を歩いて以来、いろんな事が起こった。6月21日には台風6号が襲来、7月1日から6日まで孫がプール熱に罹り入院騒ぎ。9日には拉致家族の曽我さん一家がインドネシアへ、11日には参院選挙で自民敗北、民主躍進。13日には近畿、東海、関東甲信で梅雨明け発表、片や新潟と福島で水害、新潟県栃尾市で一日の雨量が421ミリ、一日に平年(2,671ミリ)の六分の一が降った。世の中いろいろ。
7月16日(金) <その1>
家内に二川駅まで送ってもらって、JR東海道本線8時25分発の電車で豊橋へ、豊橋からは名鉄電車に乗り換え8時45分の特急で新一宮へ。新一宮で尾西線に乗り換え10時17分萩原に到着。線路沿いの道を街道まで出て歩数計をリセットし、先回の続きを萩原宿に向かって出発する。このところ連日35度を越える猛暑続きで、もちろん今日も良い天気。熱中症にならないように用心、用心。
美濃路第4宿 萩原 【はぎわら】
所在地 愛知県一宮市萩原町萩原
最寄り駅 JR東海道本線尾張一宮駅から 名鉄尾西線萩原駅下車
起へ 1里(3.9q)
美濃路4番目の宿場。東から下町、中町、上町と続き、宿の中央が曲尺手となっている。萩原村と西之川村、後に串作村が加わりこの3村によって運営された。本陣1軒、脇本陣1軒、家屋236軒、人口1,002人と言う美濃路中一番小さな宿場であった。
「名鉄萩原駅」
名鉄新一宮で尾西線の津島行きに乗り換え、四つ目の駅がこの萩原駅。駅舎のある立派な駅で、ここで列車が行き違いをする。駅前の家の軒に消火器がありその上に小さな半鐘が下がっていた。この町ではいろんな所で半鐘が目に付く。
「萩原の町並み」
駅から線路沿いに街道まで出る。左の家から織機の音が聞こえる。繊維の町ならではの音、そのリズムが快適である。街道に出たらすぐに街道らしい町屋が目に入り、これから先の街道歩きに期待が膨らむ。
「秋葉神社」
右手に秋葉神社、小さな宿場にしては立派な構えである。
「萩原商店街」
萩原下町の信号交差点から先は商店街で、道路の上に賑やかな造花が吊るされている。
「萩原の民家」
宿の中のあちこちに古い大きな町屋が残されている。低い二階の切妻平入りで階下は格子作り、二階は太い格子がはまっている。
「正瑞寺」
宿の中央付近に曲尺手があり、右に曲がる。その左に有るのが一向宗指導者(現在の浄土真宗)蓮如が訪問したという正瑞寺で、昔はここに高札場があった。
「萩原の民家」
曲尺手を曲がったところ左手に大きな町屋がある。ここは二階が低く漆喰壁で二つの虫籠窓がある。
「屋根神様とお地蔵様」
宿の左手に、家の前の左右に二つの地蔵堂を配した小規模な二階家がある。正面二階のベランダに屋根神様が祀られている。階下は扉が閉まっていて中が分からないが、架けてあるものから想像するとお祭りの神輿の蔵のようである。10月に萩原まつりがあると聞くのできっとその蔵に違いない。
「美濃路萩原宿問屋場跡」
右手、民家の塀際に最近立てられたような大きな問屋場跡の碑がある。ここ上町の上問屋は鵜飼家で、下町の下問屋は木全家が務め、2日交代で継ぎ立て業務を行っていたと言う。
「美濃路萩原宿本陣跡」
問屋場跡のすぐ先に本陣跡の碑がある。この碑は問屋場跡のものよりスリムで街路灯の柱と並んでいたので見過ごしてしまい、もう一度戻って来て見付けた次第。萩原宿の本陣は森権左衛門が、本陣のすぐ横には脇本陣があり、庄屋を兼ねて森半兵衛がそれぞれ務めていた。左の小道を入ると今はトタン葺きであるが以前は茅葺屋根だったと思われる家やノコギリ屋根の工場がある。
「稲荷神社」
次の十字路で左に曲がる。曲がった先の右手に稲荷神社がある。立派な石の鳥居と常夜灯、先の萩原まつりはここのお祭りかも。
萩原から起へ
「萩原橋」
日光川の萩原橋を渡って宿を出る。橋の右手には『日光川改修記念』碑がある。
「孝子佐吾平の碑」
萩原橋を渡ると一宮市から尾西市に入る。街道は橋を渡ってすぐ一筋目で右に曲がる。のどかな道で行く手には名神高速道路が見える。右手植え込みの中に『孝子佐吾平の碑』とその『由来』を刻んだ碑がある。それによると「天保年間(1830〜1844)に江戸参勤のため、萩原宿近くを通りかかった明石藩主松平斉宣の行列の前を、暴れ馬を取り押えようと横切った萩原宿の馬方佐吾平を先駆の武士が無礼打にした。佐吾平は吉藤村風張に生まれ家は貧しかったが、盲目の老母によく仕え、孝行の誉れが高かった。村人は佐吾平の死を悼み、この地に小祠を建て、後世に伝えた」とある。
「八幡神社」
名神高速道路をくぐり暫らく行くと、道は自然と左に折れ西へと進む。西萩原の交差点を過ぎるとニイニイゼミの声と織機の音が競うように聞こえてきた。道端にはカンナの花やムクゲの花が咲いている。右手に八幡神社の石柱が立っており、遥か先に石の鳥居が見える。
「秋葉神社」
続いて右手に正一位秋葉神社の石柱と石の鳥居がある。石柱や鳥居は立派であるがお社は背の高い台座の上にちょこんと乗っている小さなもの。
「富田の一里塚」
細い水路を渡ると左手先には西尾市民病院が見え、街道の先、両側に木立ちが見えてくる。これが富田の一里塚。美濃路には13箇所に一里塚が設けられたが両方の塚が残っているのはこの富田の一里塚だけ。左右とも塚の上に榎の大木が立っており昭和12年に国指定史跡となった。
「駒塚道道標」
一里塚を過ぎ次の左へ入る道の角に背の高い道標がある。『左駒塚道 舩渡ヘ五丁 慶応三年』と刻まれている。駒塚道はここから左に折れて、駒塚の渡しで木曽川を渡り、羽島市の駒塚へ至る道である。尾張藩家老石河佐渡守が名古屋へ参勤するために開いたのが駒塚道だと言う。
「中島邸の塀」
やがて街道の右手に長い屋敷の塀が続く。瓦屋根を乗せた土塀で黒い腰板が張られ、武者窓のような小さな格子の覗き窓もある。瓦には「中嶋」と名前が入っている。
「中島邸の門」
土塀に沿って手前右手に入ると、それは大きな長屋門がある。相当な旧家らしく立派なお屋敷なのだがどのような家柄なのかは残念ながら分からない。
美濃路第5宿 起 【おこし】
所在地 愛知県尾西市起
最寄り駅 JR東海道本線尾張一宮駅から 名鉄バス起行き起下車
墨俣へ 2里17町25間(9.7q)
美濃路で5番目、木曽川をひかえた渡船の宿場である。宿場業務は起五か村と呼ばれた起村、小信中島村、冨田村、西五城村、東五城村が分担した。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋22軒、家数887軒、人口4,094人で、かつて、上の定渡船場、中の宮河戸、下の船橋河戸の3つの渡船場があり、定渡船場は金比羅さんの渡しとも言われた。現在でも、昔ながらの街並みが残っており、当時の宿場の雰囲気を味わうことができる。
「起宿の町並み」
中嶋邸を過ぎると街道はやや右に緩いカーブを描きながら進み、左からの道路と合流し宿の道となる。
「起宿脇本陣」
右手にある起小学校へ行くための歩道橋が街道を跨いでいる。それをくぐり先に進むと、左手に駐車場、奥に和風モダンな二階建ての尾西市歴史民族資料館があり、起宿の様子や船橋の模型などが展示されている。駐車場の先には起宿脇本陣であった旧林家住宅がある。
「林家の解説」
林家は脇本陣職と船年寄を務めていたが明治3年(1870)に本陣と共に制度が廃止され、明治24年(1891)の濃尾地震で建物も崩壊した。今の建物はその跡地に建てられたもので、大正初期頃に完成し、昭和初期にも一部増築された。江戸時代の伝統的な町屋建築の様式を伝えており、昭和49年(1974)「起宿脇本陣跡」として市の史跡に指定、昭和57年(1982)に西尾市が購入し民族資料館別館として一般公開し、平成14年には国の登録有形文化財建造物となった。
「脇本陣の座敷」
江戸寄りに玄関、くぐり戸の付いた大戸、一階正面の窓には連子格子、土間境に建つ大黒柱、根太天井、立ちの低い二階など幕末の起宿の町屋造りが見られるが、外回りはガラス戸になっている。緑が濃い庭を眺めながら、縁側に腰を下ろし暫らく休憩する。帽子を脱ぎ、脚を伸ばしていると汗が引いていった。
「脇本陣の庭」
ここの庭は江戸時代からあった脇本陣の庭を基にして林家当主が昭和初期に作庭したもので、心字池を中心とした回遊式庭園で母屋と裏座敷の手水鉢には水琴窟があり、かすかな水の落ちる音が心を癒してくれる。
「起宿本陣・問屋場跡碑」
脇本陣の林家を辞して街道に出る。向かいの空き地に石柱が2本立っている。左にあるのが『史跡起宿本陣及び問屋場跡』で、右にあるのが『国学者加藤磯足邸跡』である。起宿の本陣は加藤家が務めていた。関ヶ原の戦いで福島正則が木曽川を越える時、加藤氏が渡河の手助けをしたことにより本陣職が与えられた。そして11代目の加藤右衛門七が磯足と号し、本居宣長の高弟で優れた文人であり、木曽川堤自普請を行うなどこの地方の発展に尽くしたと言われる。
「起宿の町並み」
宿は木曽川の左岸に沿って南北に伸びている。道の両側に規模の大きな二階建ての町屋が所々に残っている。二階の立ちは高いものや低いものがあり、いろいろである。
「起宿の民家」
切妻平入りの二階建てで、連子格子がはまっている。中には二階建ての蔵を持った家もある。ここの町屋は壁が黒く、板壁も黒いため、町全体が黒のイメージである。
「船橋跡」
宿の中ほどから左に折れ、堤防沿いの道に行く右手に大きな自然石の『船橋跡』の碑がある。ここの舟橋は将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝などに際し、舟を270艘以上並べて架けられた日本最大のもので、資料館の中に模型でその様子が再現されている。
「船橋跡から見た木曽川」
堤防道路をくぐって川岸に出られるようになっており、かつて船橋が架かった雄大な木曽川の流れを見ることが出来る。上流には濃尾大橋の長いトラスブリッジが見える。
「宮河戸跡の碑」
宿の道に戻って更に進むと右手の大明神社の前に『宮河戸跡』の碑がある。この宮河戸は起の商家が商う物資を運ぶ船が発着する湊であったところで、辺りに残る土蔵は当時の繁栄を示すものと言われる。
「起渡船場跡の碑」
濃尾大橋の取り付け道路をくぐって先に進む。この辺りにも古い町屋が残っている。左に折れたところに金刀比羅神社があり、その石の鳥居の左に『起渡船場跡』の石柱と碑と説明がある。ここは金ぴらさんの渡しと呼ばれ親しまれ、往来の人々で賑わったところで、定渡船2艘、置船、御召渡船各1艘の合計4艘が尾張藩御船手役所より預けられ、他に鵜飼船や馬船があって旅人を運漕した。渡し場は対岸と共に起宿船庄屋が管理し船頭20人がいた。昭和30年頃までポンポン船が運航されていた。鳥居の右には天保の頃(1830〜1844)に建てられた大きな常夜灯・石灯台がある。
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