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美濃路七次独歩記

みのじななつぎひとりあるき



美濃路ウォーク その4 


7月16日に美濃路ウォーク<その3>を歩いて早一月が経とうとしている。この間にもいろんな事が起こった。7月17日には福井で豪雨被害、美山町での一時間雨量が88ミリ。7月18日には拉致家族の曽我さんジェンキンスさん一家がインドネシアから帰国。その日の夜に我がパソコンの本体がダウン。メーカーへ送って修理が完了するまでのおよそ10日間、全くの情報断絶で、毎日の生活に占めるパソコンの大きさを痛感する。でもその間、静かに読書に浸ることが出来たのは皮肉なことか。

8月12日(木) <その1>


JR東海道本線で10時33分大垣に到着。大垣から墨俣までは岐阜バスを利用するのだが、このバスが11時10分まで無い。仕方なく待つ。そこで片言の日本語の外人女性(中国系)につかまった。ここからバスで新岐阜まで行きたいとのこと。こちらも不案内、岐阜バスの窓口へ連れて行ったら、墨俣で乗り換えるとのこと。成り行き上墨俣の乗換えまで案内する事になった。バスを降りて先ず寺町のお寺巡りをしてから長良大橋の西詰へ、ここで歩数計をリセットし、先回の続きを墨俣宿に向かって出発する。連日30度を越える猛暑続きで、今回ももちろん良い天気。熱中症にならないように用心、用心。更に用心。





墨俣


美濃路第6宿 墨俣 【すのまた】

所在地 岐阜県安八郡墨俣町墨俣
最寄り駅 JR東海道本線大垣駅から 岐阜バス岐阜流通センター南口行き、墨俣下車
大垣へ  2里50間(8.0q)

美濃路6番目の宿場。墨俣宿本陣跡の碑には「すのまたは古くから宿駅として発達し室町末期に上宿から中町、本町、西町へ街道が移り、慶長年間この地に墨俣宿の本陣が置かれ初代を沢井九市郎正賢という。二代目以後代々沢井彦四郎を名乗り明治に至るまで十三代続く。徳川時代勅使大名朝鮮琉球使節等の休憩所となり栄えた」とある。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、家屋338軒、人口1,317人。秀吉の一夜城の話でも有名。

「墨俣神社」
墨俣のバス停で下りて、先回の終わりの地点、長良大橋の西詰へ行く前に、墨俣の寺町と呼ばれる所を先に見ておくことにした。北へ向かって墨俣小学校の裏手に出ると、そこには意外にもお寺ではなく墨俣神社があった。ここは1000年以上の歴史を持つ式内社墨俣神社で、祭神は墨俣大神とか。

墨俣神社


「満福寺」
寺町には六つのお寺が集まり昔の面影を留めている。何れもこの宿駅との関係が深い。明台寺のみが浄土宗でその他の五つの寺は真宗である。それにしてもこの小さな宿場でこれだけのお寺や神社をよく維持出来たものだと感心する。墨俣神社の東隣の白壁に赤い柱や手摺欄干のお堂のあるお寺が『金足山熊谷院満福寺』。平安初期の創建で徳川初期には中本山として栄え『墨俣御坊』と呼ばれた。ここの土塀には古瓦が練りこまれており実に見事である。

満福寺


「寺町の様子」
寺の集まった町の様子は落ち着きがあり、誰一人通らない昼下がりは時の流れが止まっているように見える。

寺町の様子


「等覚寺」
満福寺の東隣が等覚寺、ここでは今、本堂の屋根の葺き替え工事が行われている最中で、庭の松の緑が印象的だった。

「光受寺」
その北隣が光受寺で、門前の説明板には蝉丸皇子の末孫某の創建と記されている。蝉丸皇子とは百人一首で知られるあの蝉丸のことなのだろうか。

「本正寺」
道を隔てた向かい(東側)に有るのが本正寺。ここの山門は、脇本陣安藤家の門が移築されたものと言われる。門の両脇の瓦の乗った塀は白と黒のコントラストが見事である。

本正寺


「廣専寺」
本正寺の道を隔てた向かい(南側)にあるのが廣専寺。山門脇に『金塔山龍華院廣専寺』と刻まれた大きな石柱が建っている。

「寺町と史跡と文化財についての看板」
犀川の堤防沿いにこの看板が立っており、簡単な地図と寺町の説明が書かれている。この近在には珍しく寺院が多く、各寺院には寺宝や文化財が多いとある。

「明台寺」
看板の南に有るのが『明台寺』、ここには土岐悪五郎の墓、頼山陽の墓碑、墨俣本陣の墓群、橋杭笑(はしくいえみ)地蔵などがある。この地蔵には言い伝えが残っている。

明台寺


「宿場の説明」
明台寺の中に墨俣宿の説明の看板があり当時の宿場細かな道や家割りなどの様子が詳しく書かれている。

「犀川とその堤」
長良川の右岸に沿って犀川がある。川舟が繋がれており、土手は桜並木になっている。春はきっと綺麗な景色になることだろう。

「墨俣橋と長良大橋」
犀川の土手から長良大橋の取り付け道路の県道31号線に上がる。犀川に掛かる墨俣橋と長良川の長良大橋とが繋がった長大な橋に見える。前回はこの橋を渡ってきた。

「渡し場付近からの長良川の眺め」
墨俣橋を渡り、長良大橋の西詰から長良川の堤防を上流へと進む。ここからが今日の街道歩きのスタートである。この辺りが昔の渡し場のあった所。長良川を見ると広い川幅の中、水辺には木が繁り、右手には先回渡ってきた長良大橋が見える。

渡し場付近からの長良川の眺め


「渡し場付近からの犀川の眺め」
反対に犀川の方を見ると、堤防の向こうに寺町のお寺の屋根が幾つか見える。明台寺付近が渡し場のあったところと言われている。

渡し場付近からの犀川の眺め


「犀川橋から墨俣宿を望む」
もう少し堤防を遡ると長良川堤防下の道路と宿場とを結ぶ犀川橋が犀川に架かっている。

「墨俣一夜城」
右手には墨俣一夜城が見える。この城は織田信長の美濃攻めに際し佐久間信盛、柴田勝家らが築城しようとしたが斎藤軍の襲撃が激しく失敗。木下藤吉郎が築城を願い出て蜂須賀小六等の助力で一夜にして完成させたという。この後の戦で勝利を収め、秀吉出世のきっかけになったことから、出世城もしくは一夜城とも呼ばれるようになった。だが、今ある城は時代考証無視の観光用で、寄り道するまでも無いと、遠くから眺めるだけにする。

「墨俣宿入口」
墨俣橋の上には『墨俣、一夜城址、墨俣町商工会』の看板が掛かっている。ここから先に延びるのが美濃路、墨俣宿である。

「史跡美濃路標石」
宿の入口右手にある小さな神社、神明社か? の道路際に『史跡美濃路』の標石がある。

史跡美濃路標石


「神社と墨俣宿の碑」
その神社の中に『史跡、墨俣宿』と刻まれた自然石の碑がある。

「墨俣本陣跡」
宿の入口の左手には本陣跡、石板に解説を刻んだ碑があり周りは小奇麗に花などが植えられている。

墨俣本陣跡


「墨俣本陣跡碑」
本陣跡の碑には「慶長年間この地に墨俣宿の本陣が置かれ、初代を沢井九市郎正賢という二代目以後代々沢井彦四郎を名乗り、明治に至るまで十三代続く。徳川時代勅使大名朝鮮琉球使節等の休憩所となり栄えた」等と刻まれている。

「墨俣宿の町並み」
宿は橋のところから真っ直ぐに西へと延び、曲尺手で右に曲がる。静かな町で両側の所々に、二階に袖壁を持った町屋が残っている。

墨俣宿の町並み


「脇本陣跡」
左手に一本の松と黒塀が残る脇本陣・安藤家がある。塀の前に『美濃路、脇本陣跡』の標柱が立っている。門は先に見た寺町の本正寺に移されているが屋敷は現存している。墨俣で宿の名残を一番感じることが出来るところである。

脇本陣跡


「再び寺町の様子」
脇本陣の先から左手に曲がると先に見た寺町で、この通りからの眺めも寺町らしくて良いものだ。

「津島神社・秋葉神社」
右手真新しい石の鳥居が津島神社と秋葉神社で、鳥居の額には二つの神社の名前が仲良く並んでいる。牛頭天王様と呼ばれたのが津島神社、火の神様が秋葉神社である。

「朝鮮通信使灯篭」
神社の小さな境内の隅に1基の灯篭が立っている。これが寛政3年(1791) 琉球使節が残した琉球国儀衛正毛廷柱の刻銘入りの石灯篭である。こんな所にも歴史が残っている。

朝鮮通信使灯篭


「この先が曲尺手」
神社を過ぎると右手に2軒二階に袖壁のある町屋が並んでおり、その先が丁字路になっている。これが曲尺手で宿の道は右に曲がる。

「八幡神社」
曲尺手で直角に折れ北へと向かう。宿の外れ犀川遊水地の土手へと上がる手前、左手に八幡神社がある。石の鳥居の脇に掲げられている『正八幡宮由来』によるとこの八幡宮は延喜式美濃神名帳には正一位荒方明神で載っており、祭神は応神天皇とのこと。この近くを鎌倉街道が通っていたので古くから交通の要衝であった。

八幡神社






墨俣から大垣へ

「美濃路標石」
八幡神社の先で犀川遊水地の土手に突き当たり、そこから左に土手へと上がる。その途中の土手に『史跡、美濃路』の標石がある。墨俣の宿を出て街道を大垣へと向かう。

「遊水地越しに一夜城を望む」
土手へ上がると左手は墨俣の家々の甍が、右手には広々とした遊水地が広がり、墨俣の一夜城を見ることが出来る。

遊水地越しに一夜城を望む


「長良川・犀川遊水地の説明」
堤防上に遊水地の解説板が立っている。この辺りは浸水の常襲地帯で古くから水との戦いが繰り返されてきた。国や県で河川改修、河道改修、遊水地事業を行い、さらに排水機を設置するなどにより洪水対策の効果をあげていると記されている。

「谷汲山道標石」
広い遊水地を眺めながら暫らく進むと右手に谷汲山道の標石がある。標石には『谷汲山道、是より六里半』とある。谷汲山とは西国三十三所めぐりの満願の寺、谷汲山華厳寺のこと。

谷汲山道標


「東結の一里塚跡」
堤防道路を西へと歩く。遊水地の遥か向こうにはソフトピアジャパンの建物や、伊吹山が見えたりする。墨俣町から安八町に入って間も無く、左の堤防下に下ると東結の一里塚跡がある。『美濃路一里塚跡』の標石と『安八町史跡美濃路一里塚跡』の解説板、そしてコンクリートの祠に入った馬頭観音がある。

東結の一里塚跡


「歴史の道の看板」
元の道に戻ってなおも進むと県道171号線美江寺西結線と交差する。交差点の右向こう角に大きな歴史の道の案内が立っている。巨大なコンクリートの偽木で幹には『お帰りは気をつけて』、2本の枝に渡した看板には『歴史の道、鎌倉街道、美濃路』『←縁結びの結神社』『←照手姫ゆかりの町屋観音堂』とあり、道はここから整備され綺麗になる。

「米の宮之跡碑」
右手に玉石をコンクリートで固めた台座の上に『倉稲魂神、米の宮之跡』の碑が立っている。

「白山神社」
左手にはこの道路を背にして白山神社がある。

「まちあい公園と町屋観音堂」
右手下に、池に八橋を渡した公園があり、その先に観音堂がある。この辺りをまちあい、とか町屋と呼んだ。ここの観音様が照手姫ゆかりの観音様で、解説板には『照手姫は、相模の国で小栗判官と夫婦の契りをしましたが、父が反対し判官を殺そうとしたところを照手姫が助け、判官は三河の国へ逃れました。照手姫は、その行方を知らず、彼方こなたをたずねた後、結神社に小栗判官との再会を祈願したところ、満願の夢まくらに霊験あって、判官の居所がわかり、再び会うことができました』とある。

まちあい公園と町屋観音堂


「歴史の道看板」
観音堂の先には大きな歴史の道の解説板があり鎌倉街道、待合(町屋)、照手姫ゆかりの町屋観音堂についての詳しい説明が書かれている。

「町屋の町並み」
観音堂のある町屋からは直進すると揖斐川の堤防へと向かい、昔の佐渡の渡し跡へ行く。今は右に曲がって国道21号線に出て新揖斐川橋を渡る。この町屋には二階に袖壁を持った数軒の家がある。

町屋の町並み


「佐渡りの渡し跡からの揖斐川の眺め」
揖斐川の堤防に上がって渡しの跡を眺めてみた。広い河川敷は緑でいっぱい、その先に木が繁り、更に先に揖斐川の流れがあるのだが、水面はあまり見ることが出来ない。

「新揖斐川橋を望む」
北に目を移すと遥か先にこれから渡る新揖斐川橋が見え、それに重なるようにJR東海道本線の揖斐川橋のトラスが見える。山並みは伊吹から連なる美濃の山々である。それにしても広い景色の所だ。

「結大明神」
堤防から戻って町屋から国道へと向かう。途中左手に結神社がある。鳥居の額には結大明神とある。

結神社


「結神社由来」
由来によると創建は嘉応年間(1169年)、祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)の三神と猿田彦命。結村の「むすぶ」は三神の「むすび」に由来し、縁結びの他、諸願成就に霊験ありと、遠国からも多くの人が参詣したとか。織田信長も戦勝祈願をした歴史のある神社である。

「さざれ石とその由来」
奥の鳥居の脇にはさざれ石が置かれ、その由来が書かれている。日本国歌に詠まれているもので、天皇の御代の繁栄がこの石の如くにと・・・、学名は石灰質角礫岩、ここから北西の20q春日村の産とか。

「新揖斐川橋を渡る」
国道21号線に出て揖斐川を新揖斐川大橋で渡る。この橋は幅が広く片側2車線と歩道があり、路側帯が広いので多くのトラックがここに停まって休憩している。橋の中程で大垣市に入る。

新揖斐川橋を渡る


「新揖斐川橋から下流を眺める」
橋を渡りながら下流の方を眺めると、さすが夏休み中、砂洲に車を乗り入れてテントを張っている家族が沢山見られる。この暑さ、一緒に水に浸かって見たい気分になる。

「佐渡りの渡し常夜燈」
橋を渡り切ったら堤防上を下流へと向かうのだが、な、な、なんと橋の取り付け道路が高い所にあるため堤防へ下りられない。500メートルくらい先まで歩いてやっと地べたに下り、そこから同じだけ戻って堤防道路へ、自動車なら何とも無いが、足で歩く者には何とも馬鹿らしい。歩行者用の階段を付けてくれたらこんな事をせずに済むのに・・・。橋からおよそ300メートル行った所から斜め右に下りたところに佐渡りの渡しの常夜燈がある。嘉永7年(1854)の建立で、渡船場の道標としての役目を果たしてきた。電線が引かれているので夜には明かりが灯るのかな?

佐渡りの渡し常夜灯


「弘法大師堂」
堤防から斜め下に下りた所から西に向かう。この辺りが東町。キリギリスが盛んに鳴いていた。そう言えばこの鳴き声、聞かなくなって随分となる。子供の頃(京都に住んでいた)「ぎ〜すは要らんかな〜〜」の売り声で虫売りのおばさんが回って来たのを懐かしく思い出した。旧道を進み曲尺手に曲がる直前の右手に弘法大師堂がある。

「東町の元造り酒屋」
曲尺手を曲がった先、右手に立派な門と塀の造り酒屋がある。『銘酒磯波醸造元』の看板がかかり、門前には酒林が下がり、『磯波』の薦被りが置かれている。でも、今は作っていないとか。

東町の元造り酒屋


「教如上人御旧跡、専勝寺碑」
右手にある小野小学校を過ぎたところに旧跡の碑が立っている。ここから右に入ると真宗の寺、専勝寺がある。慶長5年(1600)教如上人が関東より下向の折、関ヶ原の合戦に巻き込まれ、この寺に避難されたとか。その旧跡らしい。

教如上人御旧跡、専勝寺碑


「ソフトピアジャパン」
広い通りを横断すると左手にはモダンな建物群のソフトピアジャパン(高度情報基地)が広がる。

「鎌倉街道小野の長橋跡」
細い流れにかかる橋の右手前に標石が立っている。この辺りは鎌倉街道と美濃路とが同じルートを通っていたのだ。この先は新しい街で、歩いていても何の面白みも無い。

鎌倉街道小野の長橋跡


「三塚の一里塚跡」
JR東海道本線の線路に近付いたところが今宿で、ここで左に折れ広いバス通りまで出る。右に折れてバス通りを行く。左手の東小学校を過ぎた辺りが三塚町でこの辺りに一里塚跡が有るはずなのだが見当たらない。一里塚跡の碑を見落としてしまったようだ。

「神明神社」
新規橋を渡って、その先右手に神明神社。石柱には『村社神明神社』とある。

「秋葉神社と山車蔵」
国道258号線を渡ると伝馬町になる。右手に秋葉神社、その隣に大垣祭りに出る松竹山車と恵比寿山車の蔵がある。この祭りは毎年5月に行われる。

「町屋」
町の中心部に入ってきた。元酒蔵らしい建物が目に留まった。


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