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伊勢参宮街道独歩記

いせさんぐうかいどうひとりあるき



伊勢参宮街道ウォーク その4 

平成17年9月3日(土) <その1>


8月8日に参議院で郵政民営化法案が否決され、小泉総理は即日衆議院を解散した。9月11日の総選挙に向けて、只今選挙戦の真っ最中。今回の話題は自民党反対派に対する刺客候補、中央と地方のねじれ現象。郵政民営化に賛成か反対か、政権交代か。
大型のハリケーン「カトリーナ」が8月29日、アメリカ本土に上陸。最低気圧902hpa、最大風速80m、潮位上昇8.7m。フロリダ、アラバマ、ミシシッピー州では風の被害、ルイジアナ州のニューオーリンズでは湖と運河の堤防が決壊し市街地が大半水没し、多くの被害と犠牲者が出ている。自然災害最大といわれる被害で、あのアメリカが発展途上国のような混乱ぶり、アフリカ難民を救えてもアメリカ市民を救えないのかと非難の声も。

雨と行事で思惑よりも2週間遅れてしまった。いつものようにJRの駅まで送って貰って、この街道ウォーク<その4>が始まる。名古屋からは8時14分の「特急ワイドビュー南紀1号」で松坂まで。松坂から近鉄に乗り換えて2駅目の櫛田まで、9時37分に櫛田駅着。



櫛田から斎宮へ

「近鉄櫛田駅」
櫛田駅でトイレを済ませ、帽子にサングラス、手には地図とデジカメ、いつもの街道歩きのおじさんスタイルに態勢を整え街道に向けて出発する。前回は暑かったので、長袖シャツの袖を少し上げていたら、そこが真っ黒に日焼けしパンダのようになった。今回はそんな事が無いように気をつけよう。

近鉄櫛田駅


「大櫛神社」
駅前から県道37号鳥羽松阪線に出て、駅前交差点を渡ってその先の街道へ。前回の終了地点に立つ。ここで歩数計をリセットする。時刻は9時48分。街道を伊勢へと向かって出発してすぐ、県道と斜めに交差する。この交差点付近は櫛田橋の架け替え工事に伴って広い範囲で工事中。旧道を少し進むと左手に赤い鳥居群と繁みが見える。その前に『式内大櫛神社』『櫛田大市』の石碑が立っている。今では規模が小さいがこれでも昔は式内社だった。

大櫛神社


「格子造りの家」
左手に切妻平入りで、二階は黒い漆喰壁に虫籠窓、一階は格子造り、軒には幕板が下がった家がある。如何にも街道らしく時代を感じさせてくれる。このような家々を見るのが楽しみだ。

格子造りの家


「さんぐう道道標」
街道は櫛田川の堤防に突き当たる。正面には土手に上がる階段があり、その脇に背丈ほどの道標がある。文政2年(1819)のもので『左さんぐうみち』『右い賀みち』と大きく深く彫られている。

さんぐう道道標


「櫛田橋」
階段で土手に上がり、少し上流へ行き県道の櫛田橋で櫛田川を渡る。今、この橋は架け替え中で、古い橋の上流側に新しい橋が架かり完成は間近。街道時代は板橋が架かっていたと言う。この川の名前の由来は斎王がここで櫛を流された故事によるとか。

櫛田橋


「漕代地区の街道」
橋を渡って、堤防上を下流へ少し行くとその下に街道が延びている。この辺り稲木町の漕代地区、長閑な街道筋だ。

漕代地区の街道


「格子造りの家」
右手には切妻平入りツシ二階格子造りの家がある。

格子造りの家


「野仏」
左手の街道脇に野仏が立っている。馬頭観音だろうか? 背面の文字は読めなかった。

野仏


「連子格子の家」
左手に大きな切妻平入りの二階家がある。一階は格子で軒に幕板が下がっている。

連子格子の家


「六字名号碑」
左手の柿畑のそばに梵字が刻まれた『六字名号碑』がある。

六字名号碑


「街道に面した蔵」
街道の左手角に、細長く背の高い蔵がある。奥に母屋や更に蔵が続き黒い腰板が長々と続いている。蔵の横に門がありその左右に屋根の乗った目隠しのような壁がある。ちょっと珍しい建物である。

街道に面した蔵


「祓川橋」
間も無く赤く塗られた鉄の欄干のある祓川の祓川橋を渡る。この川を多気川、稲木川とも言う。昔、勅使をここに迎え、お祓いをしたので祓川と言う。

祓川橋


「民家」
橋を渡ると明和町。右手にこじんまりとした民家、切妻ツシ二階の平入り、格子造り軒に幕板が下がっている。何となく郷愁を感じさせる。

民家


「外宮へ三里の碑」
この辺りは田園地帯、左手の畑の脇、赤い消防ホース格納箱の横に『従是三里外宮』の里程標がある。右や左への案内から具体的に三里と言う里程を示すように変わり、それだけ伊勢が近くなってきた事が実感される。


外宮へ三里の碑


「妻入りの家」

今度は妻入りの家、伊勢地方独特の建築様式。切妻妻入りで妻の二階部分は出格子、その下に庇屋根が付き、幕板が下がっている。

妻入りの家




斎宮

「観音寺跡」
街道左手に『観音寺跡』のまだ新しい標柱が立っている。側にある解説によると『天正4年(1576)斎宮の乾源休がその菩提寺として創建、その後この地に移され観音寺とされたが明治元年に廃寺とされた。本堂は現在佐田清光寺の本堂になっている』と。

観音寺跡


「乾家」
観音寺跡へ来る手前右側に由緒の有りそうな立派な門構えの屋敷が有った。塀は瓦屋根が乗り、上半分が黒漆喰壁、下は黒い腰板、所々に連子窓、表札には乾の苗字があった。観音寺の乾源休の子孫か関係者なのだろうか。

乾家


「いつきのみや歴史体験館」
街道から左に折れ近鉄山田線の踏切を渡ると、その前方から左一帯が斎宮遺跡。左手前が『いつきのみや歴史体験館』、平安時代の貴族の住まいであった寝殿造を模したガイダンス棟と、古代の役所の建物をモデルとした体験学習棟とがあり、十二単や直衣の試着体験などが出来る。

いつきのみや歴史体験館


「斎王宮跡碑」
右手に『斎王御館之遺跡』の碑がある。碑の後には休憩施設。斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮という役所のあったところ。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣された。

斎王宮跡碑


「斎王宮再現模型」
左手からその前方に広がるのが斎宮跡。昔の建物跡が芝生のブロックで表現され建物の名前が表示されている。斎宮跡の手前中央付近には10分の1模型でその建物群が再現されており、宮殿の庭には可愛い人形も置かれていて、当時を偲ぶことが出来る。ボランティアの腕章をしたおじさん?が居られて、色々と説明をしたそうな素振りであったが、先を急ぐので失礼する。

斎王宮再現模型


「斎宮城跡」
街道に戻って間も無く左手に『斎宮城跡』の標柱、解説には『室町時代斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き勝手に徳政を敷き狼藉を働いた。国司北畠材親はこれを討伐した』とある。

斎宮城跡


「竹神社」
信号交差点の左手前に有るのが『延喜式内竹神社』『その昔、垂仁天皇の御代に竹連・竹氏という豪族が天照大神の奉行に供奉してこの地に留まり、孝徳天皇の御代に至って、竹郡創建の際に、その末裔が当社を創祀した。と言われる。

竹神社


「竹神社と伊勢街道の案内標識」
交差点の信号機の柱には『竹神社前』『伊勢街道』の案内標識が付いていた。

竹神社と伊勢街道の案内標識




斎宮から小俣へ(明星)

「連子格子の家が並ぶ」
斎宮を後に小俣へと向かう。街道の右手には連子格子の民家が並ぶ。


「道標」
街道の左手に真新しい天満宮への道標がある。これは立て替えられたもので、昔はここに黒木(皮が付いたままの)の鳥居が有ったとか。天満宮はかつて斎宮寮の鬼門を守ったもので、その名残がこの先の公民館に有るらしい。

道標


「六地蔵石幢」
左手に『六地蔵石幢』の看板。左に入った広場に3棟の庚申堂が有り、その間に鉄柵で囲われた灯籠型の『六地蔵石幢』がある。ここは笛川地蔵院のあった所で、明治初年の神仏分離令によって廃せられこの石幢だけが残ったという。永正10年(1513)のもので灯籠型をしており、龕部の六面に地蔵が彫られている。町指定の文化財で有明六地蔵とも呼ばれている。これと同じような六地蔵石幢を中山道の中津川宿から大井宿に向かう途中でも見掛けた。

六地蔵石幢


「連子格子の家」
街道の左手に本格的な屋敷が有る。右に切妻平入り二階建ての格子造りの母屋があり、左に座敷への入口、屋根付きの高塀、そして蔵が続く。高塀からは前栽のみどりが顔を覗かせ、これ等が街道に面して並んでいる様は壮観で、これぞまさに日本建築の美しさだ。

連子格子の家


「斎宮旧跡蛭澤之花園道標」
左手に二つの道標が前後して立っている。街道に近い方のものには『斎宮旧跡蛭澤之花園』とあり、天然記念物ノハナショウブ群落への案内。

斎宮旧跡蛭澤之花園道標


「斎王隆子女王御墓道標」
後に立っているのは『斎王隆子女王御墓従是拾五丁』とあり、天延2年(974)病気のため斎宮で亡くなった斎王・隆子女王の墓への案内で明治41年に建立されている。

斎王隆子女王御墓道標


「山神」
次の信号交差点左手前の石積みに山神が3体祀られている。小さな石だが丁寧に祀られているのに感心する。

山神


「斎王参向古道入口」
街道の右手、木柱に青いペンキで『伊勢街道』その上に『斎王参向古道入口』の木製看板が付けられている。年3回、斎王が伊勢神宮へ祭祀(さいし)に向かう途中に通ったとされる道を『斎王参向古道』と言い、この古道の再生と地域起こしの活動が地元のボランティアで活発に行われているとか。

斎王参向古道


「安養寺」
街道から少し奥まって門があり、その奥にまだ建って新しい本堂が見える。手前左に『安養寺』の石柱と、右に『明星水』の標柱がある。この安養寺は永仁5年(1297)の創建と伝えられ、天正16年(1588)街道の付け替えに伴い現在の場所に移転した。江戸時代には参宮の旅人に湯茶の接待をしたので人気を呼び、門前が大変賑わったという。

安養寺


「明星水」
寺の後に有る井戸が、明星が降臨するといわれた名水で、その名は『明星水』。この水を寺の火で沸かした湯茶には清めの力が有ると参宮客から喜ばれた。解説板には『日本三霊水の一つ』とある。あとの二つは何処なのだろうか? 何でもそうだが「日本三※※」とあるもので、その三つを示してあるものはめったに無い。

明星水


「妻入りと平入り」
街道の左手には妻入りと平入りの家が並んでいる。

妻入りと平入り


「そうめん坂」
街道の右手マキの生垣の脇に『そうめん坂』の標柱がある。ここから先僅かな坂が登っているが、この標柱が無いと坂だとは気が付かない。解説によると『この坂付近で江戸時代から明治初年まで参宮道者などを客としてそうめん屋を営んでいた』とある。他にも食べ物、笠、草履を売る店があったとか。

そうめん坂




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