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伊勢参宮街道独歩記

いせさんぐうかいどうひとりあるき



伊勢参宮街道ウォーク その4

平成17年9月3日(土) <その2>



斎宮(明星)から小俣まで

「水池土器製作遺跡標識」
道路の頭上、高い所に『水池土器製作遺跡』の案内標識がある。ここから右手へ200mで遺跡がある。土器の製作工程が分かる全国でも珍しい遺跡で、今は史跡公園になっている。

水池土器製作遺跡標識


「民家」
近鉄の明星駅への道を過ぎると、右手に切妻平入り、二階が土壁虫籠窓、一階が格子造りで軒に幕板が下がった家がある。母屋と並んで蔵が建っている。

民家


「轉輪寺」
街道の右手、少し奥まって有るのが『轉輪寺』。明星山轉輪寺(真宗高田派)。文明13年(1481)開創。本山門主が伊勢参宮の時には宿泊・休憩したと言われ、本堂も大きく、庫裏、山門、鐘楼のある格式の高いお寺だとか。門前には伊勢街道の道しるべが立っている。

転輪寺


「民家」
この辺り明星の集落、街道の左右に味のある民家が並んでいる。平入りや妻入りが混在して、それぞれには必ずと言って良いほど蔵が並んで建っている。

民家


「三忠・街かど博物館」
伊勢街道の道しるべ『三忠』が建っているところに門構え、屋根瓦の乗った黒い高板塀の家がある。門の脇には『松阪紀勢界隈まちかど博物館』の看板があった。後で調べてみたら、ここが擬革紙煙草入資料館 「三忠」で、お伊勢参りの代表的なお土産として、江戸時代から昭和の初期にかけて大ヒットした擬革紙製の煙草入れ等の資料を展示しているのだとか。中にコンクリートの建物がある。見学は要予約とか。

三忠・街かど博物館


「外宮へ二里の道標」
新茶屋に入ると街道の左手、ブロック塀の脇に道標が建っている。『従是二里外宮』とあり、嘉永6年(1853)の建立。ここは明野への分岐である。外宮へ一里近付いた。

外宮へ二里の道標


「マキの垣根」
細くなった街道を行く。街道筋には民家があったり、畑があったりで、両側にマキの垣根が目立つ。


「大師堂」
しばらく歩くと、左の刈り取りの済んだ田圃の脇の小道の角に、コンクリート製のお堂に入った2体の弘法大師がある。昔から変わらずに信仰されているのだろう、真新しい『南無弘法大師』の幟が2本立っている。

大師堂


「徳浄上人千日祈願塔」
この辺り明野の原、右手に、1mほどの高さのコンクリートの台座に『南無阿弥陀仏』と掘られた大きな石塔がある。その横には小さな石碑、奥には庚申堂がある。大きな石塔は『徳浄上人千日祈願の塔』で、側にある解説板によると『むかし、一人の僧が勢州明野の庚申堂を霊場(根城)として、修行していたと言う。天保の頃、村が大飢饉にみまわれ、悪疫大流行、世情騒然となったとき、この僧が村民の窮状を救わんものと伊勢両神宮に千日の間、村民の無事息災祈願のため素足で日参された。その後、明野村は疫病も無く、盗難、火災もなく、平安に暮らすことが出来たと言う。この僧の名を徳浄光我上人といい、千日祈願の徳を称え、明野や宇治山田の人々が世話人となって建立したもの。裏面に満行、天保7年(1836)丙申年3月29日とある。』横の小さな石碑は『廻国供養碑』で寛保元年(1741)の建立。庚申堂は寛政年間(1789〜1801)の建立と伝えられている。

徳浄上人千日祈願塔


「紙煙草入屋跡」
街道が右から左へと大きくカーブして近鉄山田線明野駅前から来る県道に突き当たる。この信号交差点で右に折れる。交通量が多い。左手には切妻妻入りの大きな屋敷が有る。庭にはケヤキの大木。この辺りには街道名物の紙煙草入屋があったと言う。

紙煙草入屋跡


「へんば餅屋」
続いて左手に『名物へんば餅』の下げ看板と暖簾の下がった店がある。このお店の説明によると『はじめ、参宮街道宮川のほとりで船を待つ旅人のため茶店を設け、餅を商い初めた。当時駕籠や三宝荒神(馬上に三つの鞍を置いたもの)で参宮する人達がこの店で憩い、ここから馬を返し参宮したため何時しかへんば(返馬)餅と名づけられた。安永4年(1775)2月、7代前の先祖がこの地に移り今日に及んでいる。』とある。ガラスの引き戸を開けて入ったお店の中には、ガラスケースに名物のへんば餅とさわ餅が並び、本物の三宝荒神が飾られていた。へんば餅は1個70円。
お店の向かいには大きなシイの大木がある。このシイの木に触るとたたりが有ると伝えられている。

へんば餅屋


「相合橋」
餅屋の前辺りから道幅が広くなり左右田圃が広がる。畷と呼ばれるところだ。外城田川の支流を相合橋で渡る。

相合橋




小俣宿

「庚申堂」
橋の先の信号交差点で広い県道と別れ、斜め右に伸びる細い方の道を行く。これが小俣の宿への道。交差点の先、すぐ左に安永年間(1772〜1781)の建立と言われる庚申堂がある。

庚申堂


「街道筋」
庚申堂から先の街道の両側に、切妻妻入りや入母屋妻入りの町屋が並び、伊勢地方独特の景観を作っている。このような町並みを歩いていると、気分がウキウキとしてくる。これが街道歩きの楽しみだ。

街道筋


「注連縄・蘇民将来子孫家」
この地方では玄関の注連飾りを一年中飾っている。一軒一軒それを見ながら歩くのもまた楽しい。注連飾りに付けられた護符に幾つかの種類がある。これは注連縄の中央に『笑門の字を背景にして、右に七難即滅、中央に蘇民将来子孫家、左に七福即生』と書いた護符を取り付けたもの。
備後国風土記逸文によると、旅に出た武塔神(素戔嗚)尊がある村で宿を請うたところ、富裕な弟の巨旦将来は断ったが,貧しい兄の蘇民将来は宿に泊め歓待したため、スサノオは茅の輪の護符を腰に付けるように蘇民将来に教え、そのお陰で蘇民将来は疾病を免れたという。この伝説は各地に残っており、蘇民将来子孫之門とか蘇民将来子孫繁昌也などと書かれた護符を家の戸口にかけることは厄病よけの役割を果たすと信じられている。

注連縄・蘇民将来子孫家


「注連縄・笑門」
こちらの注連飾りには『笑門』とだけ書かれた護符が付けられている。これはきっと『笑門来福』から来ているものと思われる。

注連縄・笑門


「惣之橋」
外城田川に架かる惣之橋を渡る。この橋小俣宿の江戸寄りにあるので、江戸橋とも呼んだ。

惣之橋


「桝形」
眼鏡屋さんのある角で左へ直角に曲がる。この曲がりは宿場特有の桝形か?

桝形


「高札場跡」
角の駐車場のブロック塀の内側に『紀州藩高札場跡』の標石が有る。
この辺りで昼になったので昼食を取ることにして、近くのお店に入る。昼時で賑わっており、しばらくはクーラーに当たって涼しさを味わっていたが、いくら経っても注文の品が出て来ない。聞いてみると今日はお手伝いが無く、たった一人でやっているので時間が掛かっているとの事。賑わっていたのはみんな出来るのを待っていたからだ。汗はひいたものの、時間が勿体無い。それならそれと一言言ってくれれば別の選択もあったのに〜。

高札場跡


「粗い格子の家」
角を左に曲がった先に一階には粗い格子がはまり、背の低い二階は黒い漆喰壁で虫籠窓の家がある。ここはかっては『丸吉』と言って、紙煙草入れや薬などを売っていたとかで、それらしい雰囲気がある。

粗い格子の家


「浄土寺」
宿の道は左手の浄土寺の門前で右に折れる。浄土寺(浄土宗)は、鎌倉時代の阿弥陀如来を本尊に祀った寺で、境内に不動堂、子安地蔵堂が建ち、庚申塔も残されている。浄土寺門前の通りをしばらく行き、消防団車庫前の三叉路を左に折れると、元町の町並みとなる。小俣で古い町並みが続くところ。しかし、ここで道を誤ってお寺の門の前を通り、直進してそれから右に曲がって通りに出てしまった。途中でおかしいなと感じたのだが・・・。

浄土寺


「本陣跡」
左手に真っ白くペンキで塗られたブロック塀があり、その前に『鳥羽藩本陣跡』の標石がある。

鳥羽藩本陣跡


「坂田の橋跡」
右手には『坂田の橋跡』、この橋にはどんな由緒があるのかその詳細は分からない。

坂田の橋跡


「高札場跡」
続いて有るのが『鳥羽藩高札場跡』。先にあったのは『紀州藩高札場跡』。同じ宿の中で鳥羽藩と紀州藩のもがある。一体どうなっているのだろう。

鳥羽藩高札場跡


「参宮人見付」
宮川の西を流れる汁谷川にかかる宮古橋のたもとには『参宮人見付』と言う道標がある。

参宮人見付


「宮川堤防」
丁字路の向こうには宮川の土手が広がる。そこの案内標識の下に『宮川親水公園』の標識もついている。

宮川堤防


「桜の渡し跡」
土手に上がると、その先は広い宮川の河原で、そこに石を敷いて『桜の渡し』が再現されている。

桜の渡し跡




小俣から外宮へ

「宮川橋」
渡し跡から戻り、宮川に沿う道を行く。JR参宮線の鉄橋をくぐり少し行くと宮川橋。この橋で宮川を渡る。ところがこの橋には歩道も、そのスペースも無い、道路に一本の白線すら引かれていない。歩行者にとってこれ以上怖い橋はない。橋の右側を歩いて、向こうから来る車の運転手の目を睨み付け「歩行者が居るぞ〜」と言わんばかりの顔をする。自衛手段だから仕方が無いが、一体どんな顔をして歩いているのだろうか。自分でも可笑しくなってくる。

宮川橋


「廣重の絵」
橋を渡り終えると土手の左手に廣重の『宮川桜の渡し』の絵とその解説がある。『伊勢最大の川、宮川は江戸から来ても大阪から来ても伊勢に行くには必ず渡らなければならない。春には桜が美しく咲く堤に沿って茶屋が並び、御師の出迎え看板が林立し道中歌も賑やかに響いた。「桜の渡し」は明治30年参宮鉄道の開通まで生き続けた。』とある。

廣重の絵


「二見道道標」
JR参宮線の右をくねくねと曲がりながら、建て込んだ町中の狭い道を進むと『右宮川渡場』『左二見浦』『すぐ外宮江十三丁半、内宮江壱里三十三丁半』の道標がある。文政5年(1822)の建立。このすぐは勿論真っ直ぐのこと。

二見道道標


「筋向橋」
突然と言う感じで広い道に出る。バスが走っている県道37号鳥羽松阪線。ここで左に折れて次の信号交差点がJR参宮線の山田上口の駅入口。これを右に折れ、次の道を左に折れるとたばこ産業に突き当たる。これを右に行くと広い道の交差点、五差路に出る。交差点の向かいに百五銀行がある。この前、道を挟んで両側に小さな『筋向橋』の欄干がある。側には解説板。『この橋は宮川の支流の清川に架かっていたもので、その川は暗渠になり、嘉永2年(1849)の欄干だけが残った。各方面から伊勢へ向かってきた街道がここで一つになり伊勢へと入る。』

筋向橋


「注連縄・千客万来」
この銀行に掛かっている注連縄の護符には『千客萬来』とあった。やはり伊勢でも客商売のものは違う。

千客万来


「阿弥陀世古」
橋を渡るようにして広い通りを進むと右手に真新しい石柱が立っていた。『→阿弥陀世古』とある。次々と消え、忘れ去られてゆく古い地名や通りの名前を残してゆこうとするものか。

阿弥陀世古


「小西万金丹薬舗」
やがて通りの左手に伊勢独特の建物の『小西万金丹薬舗』がある。通りに面した店の間は開け放たれ、古い看板や屏風が飾られている。延宝4年(1676)の創業。万金丹は伊勢みやげの代表であり、業者も多かったが明治以降ほとんど廃業し、現在は野間家と小西家の二軒が残るのみ。ここでは「まちかど博物館」として販売とともに、建物の見学もさせてくれる。ちなみに、胸焼け、腹痛など万病に効く『伊勢の霊薬万金丹』の原料は「麝香」「甘草」「阿仙薬」「肉桂」「木香」「丁字」等だとか。

小西万金丹薬舗


「月よみの宮道標」

NTTの建物の先の信号左に入る道に明治26年(1893)建立の道標が建っている。これには『月よみの宮さんけい道』と刻まれており、この先に外宮の別宮の『月夜見宮』がある。

月よみの宮道標



外宮

「外宮」

右手に外宮の神域。玉砂利を踏んで一気に伊勢に来た実感が湧いてきた。左手に手水舎があり、正面に火除橋。ここが伊勢神宮外宮と呼ばれる豊受大神宮。お参りは次回に回して、今回の行程をここで区切る。午後2時45分。歩数計をリセットする。これからはコースを外れ伊勢の台所と呼ばれた河崎の町を訪ねる。

外宮・火除橋



やっと伊勢にたどり着いた。両宮へのお参りは次回にして、伊勢の台所と呼ばれた河崎の町に寄った。水運によって栄えた問屋町で、その名残が沢山あり見所は豊富。時間にせかされ駆け足での訪問だったので、ゆっくりと見て回ることが出来ず一寸残念。何れ日を改めて再度訪ねてみたい。

帰りはJR参宮線伊勢市駅から16時03分の「快速みえ」に乗車する。松阪までの乗車券400円を買って後は青空フリー切符、夕日に照らされた車窓を見ながら、車内でしばし寛ぐ。冷房が効いて火照った体が徐々に冷めてくる。何とも言えない心地良さだ。

今日のニュース、朝刊では「米ハリケーン 政府、5年前に被害想定。予算難対策怠る。ニューオーリンズ冠水市街地になお6万人」。夕刊には「ハリケーン、IEA、備蓄石油放出、日糧200万バレル、被害穴埋め」。



今日歩いた記録
     33,273歩(伊勢参宮街道正味24,823歩)
     19.95q (伊勢参宮街道正味14.89q)
     1,473kcal(伊勢参宮街道正味1,096kcal)

       今日までの累計
     135,293歩(伊勢参宮街道正味115,285歩)
     81.12q (伊勢参宮街道正味69.15q)
     5,860kcal(伊勢参宮街道正味5,112kcal)

ページ公開 平成17年9月21日
ページ改良 平成23年4月30日


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