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伊勢参宮街道独歩記
いせさんぐうかいどうひとりあるき
伊勢参宮街道ウォーク その5
平成17年10月16日(日) <その1>
郵政民営化の可否を問う9月11日の衆議院議員総選挙で、小泉自民党が予想外の圧勝をして、くの一刺客や、棚ぼた、小泉チルドレンなど話題豊富な新人議員が沢山生れた。再提出された法案も衆参両院をあっさりと通過して成立した。一体あの騒ぎは何だったのか? 次はポスト小泉に話題が移り、どんなサプライズが起こるのかが注目される。
一月余りがアッと言う間に過ぎてしまい、今は秋真っ盛り、明日は旧暦9月15日の豆名月だ。いつものように駅まで送って貰って、この「伊勢参宮街道ウォーク」の最後<その5>が始まる。名古屋9時30分の「快速みえ1号」で伊勢市駅まで。車窓には刈り取り直後の田圃と、刈り取った後のひこばえの緑がパッチワークのように広がり、ススキの穂とセイタカアワダチソウの黄色の花が風にそよいでいる。この日の伊勢は神宮の年最大のお祭、神嘗祭で、駅前から参道にかけては色とりどりの旗や幟が翻り、駅周辺には“楽市”の屋台が並び賑やかである。
外宮
「伊勢市駅前通り」
降り立った伊勢市の駅はえらい賑やか。時候の良い日曜日だからかと思ったら、そうではない。駅前には色とりどりの旗や幟が立っている。よく見ると『祝神嘗祭』とあり、一年で最大のお祭の日なのだ。駅から南へ真っ直ぐに伸びる広い道には神宮常夜灯とこの旗とが交互に並んで立って、外宮まで続いている。
「表参道」
突き当りが外宮の表参道。ここには『宮後町』、『岩渕町』、『吹上町』などの色とりどりの旗が翻っており、道路は間も無く行列が通るのか交通規制が敷かれている。
「外宮表参道火除橋」
表参道の左には衛士見張所、黒い帽子に黒い制服、金ボタンの厳しい衛士が立っている。左奥には勾玉池と奉納舞台とがある。この舞台では観月会などの行事が行われる。正面に架かる橋が『表参道火除橋』、どの参道にも火除けの橋があり、御正殿に火が入らないように守られている。
「一の鳥居」
橋を渡った左手には『手水舎』(てみずしゃ)があり、ここで手を清め、口をすすいでお参りに向かう。さすが神宮、手水鉢は幼稚園のプール程の大きさ。鬱蒼と繁った森を背に『一の鳥居』が立っている。
「神楽殿」
森の中の『二の鳥居』をくぐるとその先右側に『神楽殿』など一連の建物が連なっている。この建物の屋根は鎌倉時代風で、この中でご祈祷やお神楽が行われ、お札やお守りを授けられる。
「外宮御正殿」
右に北御門からの参道が来て、それを過ぎると右に『九丈殿』、『五丈殿』があり、続いて右手、鳥居とそれに連なる板塀に囲まれて『御正殿』がある。天照大神のお食事を司る神の豊受大神(とようけおおみかみ)をおまつりしている。唯一神明造の建築様式で鰹木は9本、千木は垂直に切られている(この事は小学校の修学旅行で習った)。雄略天皇の22年(478年頃)の創建と伝わる。萱葺屋根には苔が蒸している。その先には新御敷地と言われる次の遷宮の用地がある。
「土宮」
御正殿の参拝を済ませたら参道の左にある別宮にお参りする。すぐ右手に有るのが『土宮』(つちのみや)で、大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀る別宮。この地山田原の鎮守の神で、外宮創建後は宮域の地主の神として祀られている。
「多賀宮」
正面の石段を上がった所にあるのが『多賀宮』(たかのみや)、豊受大神の荒御魂(あらみたま)を祀る別宮で、山の頂にあるので古くから高宮(たかのみや)と呼ばれていた第一の別宮。
「風宮」
左手に有るのが『風宮』(かぜのみや)、風の神を祀る別宮で、元寇のさい神風を吹かせて日本を守った神とされている。
外宮からおはらい町へ
「表参道」
表参道へ戻ってきた。ここから内宮まで街道の続きを行く。町がざわざわとしてお祭りの気配がする。
「祖霊社」
バス通りを西へと向かい道が右にカーブする手前の信号交差点で左に折れ、すぐ次の信号で今度は右に折れる。その角に『祖霊社』の大きな石柱があり、奥には色々な建物がある。そばの由緒を読むとここで葬儀や霊祭が行われるところとか。
「永代常夜燈」
角を曲がった所の右手、敷地の中に『両宮永代常夜燈』が立っている。
「近鉄をくぐる」
左に大きくカーブしながら進むと、前方にコンクリートの高架橋が見えてくる。これが近鉄の鳥羽線。右が五十鈴川駅方面、左が宇治山田駅方面になる。これをくぐる。
「小田橋」
近鉄をくぐって程無く、青銅の擬宝珠があり、欄干が茶色く塗られた綺麗な橋がある。これが朝川に架かる『小田橋』。右の柳の木の下に『歴史の中の小田の橋』の解説板があり、当時の様子が描かれている。江戸の頃、本橋の横に小橋(仮屋橋)が架けられており忌服の人や生理中の婦人は小橋を渡る事になっていた。
「簀子橋道標」
小田橋を渡って川沿いを左に行くと道標が立っていて、そばに解説板が二つ立っている。一つは読めなくなっており、もう一つには『簀子橋道標、本道標はもと旧参宮街道沿いの簀子橋前に弘化4年(1847)に建立されたものを移設しました』とある。『すぐ御さんぐう道』、『すぐ二見』と刻まれている。
「伊勢風町屋」
橋を渡ると尾上町、街道沿いの右手に典型的な伊勢風の町屋がある。街道に沿って蔵と並んで建ち、どちらも妻を向けている。切妻妻入りで、一階は格子造り、軒には幕板が下がり、二階の妻の中央に出格子窓。外壁は栂材を使った「きざみ囲い」。
「尾部坂」
街道は長い上り坂になる。この坂が尾部坂で、間の山とも呼ばれた。これは外宮と内宮との間にある山であるところから間の山と言う。
「お杉お玉小屋跡」
坂の途中の左手に『間の山お杉お玉』と彫られた標石が立っている。昔この辺りに三味線や胡弓を鳴らして旅人や参詣客から投銭を乞うことで有名だった芸人のお杉とお玉が居た。その場所を示す標石である。
「両口屋」
倭町で左から来る道と斜めに合流する左角に、上りの坂に沿って玉石土台が積まれた上に古い屋敷がある。これが旅館・両口屋の跡。かつての賑わいが想像できる。
「備前屋跡」
古市町に入る。テニスコート前バス停近く、右手の駐車場のフェンスの中に『備前屋跡』の標石が立っている。この古市は江戸の吉原、京の島原と並ぶ遊郭で、伊勢詣での精進落しで賑わった。古市には天明年間(1781〜1788)頃、人家約350軒中妓楼は70軒余、遊女が1,000人居たと言われる。この備前屋は牛車楼とも呼ばれ、古市著名の妓楼のひとつであったと言う。
「油屋跡」
近鉄跨線橋の手前右手に『油屋跡』、標石の側面には『旧古市遊廓の代表的妓楼。寛政8年(1796)に起こった「油屋騒動」を題材にした歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」の舞台で知られる』とあった。
「近鉄を渡る」
続いて近鉄の線路を跨ぐ。
「長峯神社」
左手に一対の狛犬があり後ろに石の鳥居、その奥に有るのが『長峯神社』。解説板の由緒によると『長峰とは文字通り長く続く峰、外宮と内宮とを結ぶこの尾根伝いの地形に由来している。祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)で、古市の産土神として深い信仰を集め、芸道の守護神としてもこの古市に深く根をおろしている』。
「旅館麻吉」
中之町に入って間も無く、街道の左に『旅館麻吉』の案内板があり、左に50m程奥へ入ると広い駐車場を前にして大きな木造の建物がある。『創業は天明2年(1782)以前で、もとは花月楼と言う茶屋であった。明治時代には珍しい三層楼として、伊勢音頭の舞台を持ち、芸妓も常時30人ほど抱えた県下第1級の料理屋であった。現在4棟の中心建物があり、懸崖作りで最上層まで6層階に及んでいる』。急な崖に重なるように建ち石階段の上には渡り廊下が架かっている。
「道標」
建物の横、石階段に続く道の脇に道標がある。天保年間(1830〜1844)の建立で『左二見』などと読める。
「伊勢市古市参宮街道資料館」
街道が伊勢自動車道を跨ぐ手前の左手に『伊勢市古市参宮街道資料館』がある。伊勢の国最大の歓楽街であり、伊勢歌舞伎や伊勢音頭など、古市の歴史的資料を収集、保存、展示する資料館。
「月読宮道標」
三条前バス停そばの左手に『月読宮道標』がある。それには『月よみの宮さんけい道』と刻まれ、明治27年の建立。月読宮は内宮の別宮の一つである。
「大きな常夜燈が一対」
街道の右手に突然どでかい常夜燈が一対並んで聳え立つ。その脇には『奉献両宮常夜燈・東京神田旭町富樫文治』の大きな石柱。大正3年の建立とか、幾ら掛かったのだろうかと興味が湧く。
「牛谷坂」
常夜燈を過ぎると長い下り坂になる。この坂を牛谷坂と呼ぶ。道の左右が繁みで片側に歩道が設けられていて、快適に下ることが出来る。坂の途中の左手に『両宮参拝碑』や『猿田彦神社境内地』の碑が立っている。
「宇治惣門跡」
街道が広い通りの県道32号伊勢磯辺線(御木本道路)に突き当たる所の手前右手に『宇治惣門跡』の碑が立っている。この旧参宮街道の牛谷坂と宇治の町並みとの間に設けられ、俗に黒門と呼ばれ、番屋が明治維新までここにあった。
「猿田彦神社」
牛谷坂の左が既に神社の境内で、県道に突き当たったところで左に曲がると、その左手が神社の正面入口となる。祭神は猿田彦命、天孫降臨の祭に道案内を務めた神様で、みちひらき(開運)の神様として信仰されている。今日はお祭りで法被を着た若い女性が境内に居て活気に満ちている。
「混雑する内宮への道路」
国道23号線(御幸道路)を横切る。この交差点が宇治浦田町、バスや車を使う場合は、これを右に行くと内宮前のバス停や駐車場がある。この先はいつも混雑している。
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